太宰帥大伴卿の京に上りし後、筑後守葛井連大成、悲しび嘆きて作る歌1首
今よりは城の山道は不楽しけむわが通はむと思ひしものを
(1)
筑後守
守(国司)= 大国 従五位上
〃 上国 従五位下
〃 中国 正六位下
〃 下国 従六位下
筑後国は上国であるので、十郡七十郷、百八十七里で
守一人、介一人、大橡、小橡各一人、大目、少目各一人、史生三人
郡には大領、少領、主政、主帳がいた
〃 上国 従五位下
〃 中国 正六位下
〃 下国 従六位下
筑後国は上国であるので、十郡七十郷、百八十七里で
守一人、介一人、大橡、小橡各一人、大目、少目各一人、史生三人
郡には大領、少領、主政、主帳がいた
(2)葛井連大成の略歴は、次の官職が知られている。
·
養老3年(719) 閏7月11日 新羅使
·
養老4年〈720年〉 5月10日:白猪史のち葛井連に改姓
天平3年〈730年〉 正月27日外從五位下
・「乙巳、筑前國司言:「新羅使-薩飡-金-序貞等、來朝」於是、遣從五位下-多治比真人-土作、外從五位下-葛井連-廣成、於筑前、檢校供客之事」
・天平15年7月3日
「庚子、天皇御石原宮、賜饗於隼人等、授、正五位上-佐伯宿禰-清麻呂、從四位下、外從五位下-葛井連-廣成、從五位下、外從五位下-曾乃君-多利志佐、外正五位上、外正六位上-前君-乎佐、外從五位下、外從五位上-佐須岐君-夜麻等久久賣、外正五位下、」
天平20年〈748年〉1月己未
「己未、車駕、幸散位-從五位上-葛井連-廣成之宅、延群臣宴飲、日暮留宿、
天平19年4月
「丁卯、天皇御南苑、大神神主-從六位上-大神朝臣-伊可保、大倭神主-正六位上-大倭宿禰-水守、並授從五位下、、以外從五位下-葛井連-諸會、為相模守、」
である。この葛井氏を考えるうえで、忘れてはならないのは、河内国古市郡を本拠地とした西(河内)文首である。『古事記』においては、百済より『千字文』『論語』を将来した和邇吉師の後裔氏族であるが、史上では文首根麻呂(根摩呂・禰麻呂・尼麻呂)が大海人皇子の東国入りに随従した20余人の一人で、壬申の乱では村国連男依らとともに軍勢を率いて進軍し、その論功によって大宝元年(701)に封100戸が下賜された(文首根麻呂墓誌の刻文:「壬申年将軍」奈良県宇陀市榛原八滝出土)。なお、古市郡および隣接する丹比郡には、文首のほかにも多数の百済系渡来氏族が居住しており、丹比郡に居住したのは辰孫王(王辰爾の祖)の後裔を称する氏族群、いわゆる「野中古市人」(船氏・津氏・白猪氏<後の葛井氏>である。
次の『続日本紀』神護景雲4年3月辛卯の条にある、
少女等に 男立ち添ひ 踏み平らす 西の都は 萬世の宮
原文:乎止賣良爾 乎止古多智蘇比 布美奈良須 爾詩乃美夜古波 與呂豆與乃美夜、
其歌垣歌曰:
淵も瀨も 清く爽けし 博多川 千歲を待ちて 澄める川かも
原文:布知毛世毛 伎與久佐夜氣志 波可多我波 知止世乎麻知弖 須賣流可波可母、
每歌曲折、舉袂為節、其餘四首、並是古詩、不復煩載、
時詔五位已上、內舍人及女孺、亦列其歌垣中、歌數闋訖、河內大夫-從四位上-藤原朝臣-雄田麿已下、奏和舞、賜六氏歌垣人、商布二千段、綿五百屯、」
時詔五位已上、內舍人及女孺、亦列其歌垣中、歌數闋訖、河內大夫-從四位上-藤原朝臣-雄田麿已下、奏和舞、賜六氏歌垣人、商布二千段、綿五百屯、」
とあり、また始祖の記載に始まって、祖先を顕彰するために作られた「家牒」が注目される。
「斯並国史家牒。詳載其事矣」 にみるように、
「貴須王者百済始興第十六世王也。夫百済太祖都慕大王者。日神降霊。奄扶余而開因。天帝授◆。惣諸韓-而称王。降及近肖古王。遥慕聖化。始聘貴国。是則神功皇后摂政之年也。其後軽嶋豊明朝御宇応神天皇。命上毛野氏遠祖荒田別寸。使於百済捜聘有識者、国主貴須王恭奉使旨。択採宗族。遣其孫辰孫王(一名智宗王)、随使入朝。天皇嘉焉。特加寵命。以為皇太子之師矣。於是。始伝書籍。大◆儒風。文教之興。誠在於此。難波高津朝御宇仁徳天皇。以辰孫王長子太阿郎王為近侍。太阿郎王子玄陽君。玄陽君子午定君。◆◆◆生三男。長子味沙。仲子辰仁。季子麻呂。従此而別始為三姓。各因ニ所職以命氏焉。葛井。船。津連等即是也。」
とあり、三氏の同祖説を強調した。
とあり、三氏の同祖説を強調した。
ただし、井上光貞が説くように、
「地縁的関係の力強さは西文氏系の三氏(文・武生・蔵)の場合にも、船氏系の三氏(船氏・津氏・白猪氏<後の葛井氏>)の場合にも血縁同胞の精神的=生活的共同の保持強化に大きな役割を果たしたのであるが、それはまた血縁的には恐らく無関係な西文氏系の三氏と船氏系の三氏をも一つの結合へと統一して行ったのである。」
というのは、正鵠を射ているだろう。
なお、葛井寺(大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21)は葛井連大成の建立と伝えられている。
(2)
不楽しけむ
「さぶし」は「さぶ」と同根で、同じく上二段活用動詞。
「山の端にあぢ群さわきゆくなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば」(万葉集、486)
「ささなみの志賀津の子らがまかり道の川瀬の道を見れば不怜も」(万葉集、218)
などに用例を見る。
(3)
「城の山道」か「城山の道」か
この大宰府から筑後国への官道には、今なお定説はないが、あえて、「山道」の語に拘れば、
案‐①)筑紫野市萩原から日尾山の鞍部に到着し、そこから日尾山(火の尾、烽台)山頂に到着した後、そこから基肄城東北門蹟を縦断して、丸尾礎石群という城内の倉庫十数棟蹟を経由して、基山町城戸に抜ける西側のルート
が推測できる。しかしながらこれでは急峻すぎて、いかに健脚な古代人であろうとも、その山道を通過する時間の長さを考えれば、無理は避けたに違いない。
なぜならば大宰府政庁から南下する官道は基肄城跡(佐賀県基山町)麓を経由して、肥前国府と筑後国府へ分岐する基肄駅(現JR基山駅付近)を抜けて築後(久留米市)と肥前(佐賀県)の分岐点にさしかかる平坦部を行く、
がある。現在の国道3号線である。本来であれば、直線距離を通行して、筑後国庁へ帰るのが順当であろう。そこで、従来の読みを変えて、「城山の道」と読み替えたい。つまり「基山=城山」説である。
本文は、「今よりは城山の道は」として、大宰府から南下して、筑紫野市山谷から基肄城跡の縁を抜けて、基山町城戸に抜けるルートが「城山の道」であったと提唱する。
そうであれば、基山町立明寺地区遺跡C地点の古代道が参考となる。南北に延びる幅12mの広い道路で、筑後方面に向けた道路が発掘されたのは初めてである。両側に側溝(幅約40cm、深さ約50cm)。奈良時代の官道の幅はおおむね約9mであるだけに、その官道の重要性を想定させる。「城の山道」は万葉集の一首に登場するだけで位置は不明のままである。
参考資料
筑紫野市岡田地区で発見された豊後国へ向かう官道(幅9メートル)
ちなみに、筑後国の国庁は、現在の久留米市の東側、標高 10~17m程の低
台地上に筑後国府域が広がる。現在の合川・東合川・朝妻・御井町にわたる、東西約 1.5 ㎞、
南北約 700mの範囲。
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