天平7年・ 9年の疱瘡
『続日本紀』には、天平7年の流行病は「■(わん)豆瘡」と記述し、「俗に裳瘡」とある。天平9年の流行病は「疫瘡」と記す。典薬寮勘文では、「疱瘡、■(わん)豆病、■豆瘡」と記す。太政官符では「赤班瘡」とある。
『続日本紀』巻12には、この天平7年及び天平9年の疱瘡流行に関係を有する記事は、下記の通りである。
天平七年(七三五)
◎八月乙未(12)。勅日。如聞。比日大宰府疫死者多。思欲救療疫気以済民命。是以。秦 幣彼部神祇。為民祷祈蔦。又府大寺及別国諸寺。読金剛般若経。偽遣使賑給疫民。井加湯 薬。又其長門以還諸国守若介。専斎戒道響祭祀。
◎八月丙午(23)。大宰府言。管内諸国疫癒大発。百姓悉臥。今年之間欲停貢調。許之。
◎閏11月戊成(17)。詔。以災変数見。疫病不己。大赦天下。自天平七年閏十一月十七 日昧爽以前大騨罪以下。罪無軽重。巳発覚末発覚。己結正末結正。及犯人虐。常赦所不免。 威赦除之。其私鋳銭。井強盗窃盗。並不在赦限。但鋳盗之徒応入死罪各隆一等。高年百歳 以上賜穀三石。九十以上穀二石。八十以上穀一石。孝子順孫。義夫節婦表其門間。終身勿 事。鯨寡惇独篤疾之徒不能自存者。所在官司量加賑他。 ◇是歳。年願不稔。自夏至冬。天下患魂豆癒俗日英癒。夫死者多。 天平八年(七三六)
◎十月戊辰(22)。詔日。如聞。比年大事所管諸国。公事稽繁。労役不少。加以。去冬 疫癒。男女惣困。農事有廃。五穀不鏡。宜免今年田租令続民命。
天平九年(七三七)
◎四月(19)。大事管内諸国。疫癒時行。百姓多死。詔奉幣於部内諸社以祈祷蔦。又 賑他貧疫之家。井給湯薬療之。
◎五月壬辰(19)。詔日。四月以来。疫早並行田甫燥萎。由是。祈祷山川。葵祭神祇。莱 得効験。至今猶苦。朕以不徳実致玄災。思布寛仁以救民患。宜令国郡審録菟獄。掩骸理解。 禁酒断屠。高年之徒。錬寡惇独。及京内僧尼男女。臥疾不能自存者。量加賑給。又普賜文 武職事以上物。大赦天下。自天平九年五月十九日昧爽以前死罪以下。威従原免。其八虐劫 賊。官人受財柾法。監臨主守自盗。盗所監臨。強盗窃盗。故殺人。私鋳銭。常赦所不免者 不在赦例。
◎六月甲辰朔(1)。廃朝。以百官官人患疾也。(朝を廃む、百官の官人疾を患えるを以てな
り)
・6月11日 小野老死去
◎七月丁丑(5)。賑給大倭。伊豆。若狭三国飢疫百姓。散位従四位下大野王卒。
◎七月壬午(10)。賑給伊賀。駿河。長門三国疫飢之民。
◎七月乙未(23)。大赦天下。詔日。比来。縁有疫気多発。祈祭神祇。猶未得可。而今 右大臣。身体有労。寝膳不穏。朕以側隠。可大赦天下政此病苦。自天平九年七月廿二日昧 爽以前大騨罪己下威赦除之。其犯人虐。私鋳銭。及強窃二盗。常赦所不免者。並不在赦 限。
・7月13日 参議藤原麻呂死去
・7月25日 右大臣藤原武智麻呂死去
・8月5日 参議 藤原宇合死去
◎八月甲寅(13)。詔日。朕君臨宇内稽歴多年。而風化尚擁。黍庶未安。通旦忘窺。憂労 在叢。又自春己来災気連発。天下百姓死亡実多。百官人等開卒不少。良由朕之不徳致此災 殊。仰天漸悼。不敢寧処。故可優復百姓使得存済。免天下今年租賦及百姓宿負公私稲。公 稲限八年以前。私稲七年以前。其在諸国能起風雨為国家有験神未預幣吊者。悉入供幣之例。 給大宮主御盃。坐摩御重。生嶋御重及諸神祝部等爵。
◇是年春。疫癒大発。初日筑紫来。経夏渉秋。公卿以下天下百姓。相継没死不可勝計。近代 以来末之有也。
事実、『続古事談』第五諸道には
「もがさと云病は、新羅国よりおこりたり。筑紫の人うをかひける 船、はなれて彼国につきて、その人うつりやみてきたれりけるとぞ」
とある(『壇嚢紗』に同文)。
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