2016年7月7日木曜日

大宰府の日本遺産「西の都」

注目すべきは、博多湾から大宰府に伸びる2本の路である。しばしば官道と呼ぶが、そのような堅苦しい言葉よりも、National highwayである。当時、博多海岸より大宰府までの中間地点がどのような状態であったか不明であるが、ともかく2本のHighwayが一直線に伸びていた。


太宰府の名菓ジャン・ドゥ

太宰府の名菓ジャン・ドゥのオーナー陶山忍氏を紹介したい。

http://www.jean-doux.jp/start/suyama_owner.html

同店には、多くのスイーツがあるが、私のわがままを言えば、

*ダックワーズ(キャラメル味)

がお勧め。


2016年7月6日水曜日

出土した銅矛11口

天明4年2月6日に、牧童清太が立岩山六反田に西「高尾山の南の尾筋の樵路にて銅矛11口掘出せり、だいなるは長壱尺五尺広3寸、小なるは長壱尺弐寸5分広弐寸五分あり」
とある。(『筑前国続風土記拾遺』巻16、418頁)

五卿と大宰府

文久3年(1863)8月18日の政治的クーデター(公武合体派の勝利)で京都を追放された尊攘派公卿7名は長州萩に辿り着いた。その間の詳細は著名であるので、省略に努める。結局、元治元年(1864)7月の蛤御門の戦いで勝利した幕府は、5卿を福岡・久留米・佐賀・熊本・鹿児島の5藩が預かることで、それぞれ向った。しかしながら幕府は五卿を大宰府に幽閉した。
 五卿は慶応元年(1865)1月15日に長州三田尻の福浦を出発した。その日に轟灘を渡り、若松港に到着し、そこから黒田藩差向の船に乗り換えて、申の刻に黒崎に辿り着いた。出迎えたのは、黒田藩家老の久野四郎兵衛。五卿に同行した長州藩家老柳沢備後・同家老迫田伊勢之助らも、黒崎の御茶屋(本陣)に宿した(現在、御茶屋石碑が立つ場所からJR九州黒崎駅付近の鉄路を挟んだ両側)。

五卿は輿に乗り、黒田藩の藩兵が輿の前後を守護して、行進した。1月18日寅の刻、黒崎を出発し、木屋瀬で昼食、そして赤間駅に到着し、その場の通称赤間御茶屋に宿泊した。

以上、*『維新起源大宰府紀年編』(明治26年12月、東京博聞社・福岡盛岡書店)--九州大学図書館所蔵)からの紹介。

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五卿は元治2年(1865)2月に大宰府入りをし、慶応3年(1867)12月の王政復古後に帰京するまで、約3年間、大宰府に滞在した。

この間、大宰府と縁を持った勤王の志士には、
1,西郷隆盛
2,高杉晋作
3,大久保利通
4、桂小五郎
5,伊藤博文
6,坂本龍馬
らの幕末のスターがいた。例えば、坂本龍馬の場合、
*慶応元年(1865)5月23日~5月28日
に大宰府に滞在し、薩摩藩士渋谷彦介らの斡旋で三条実美に面談している。


<『長崎街道』42頁、前山俊治先生作成図>


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2016年7月4日月曜日

なぜ、「大野城」なのか?

大宰府政庁の背後にある四天王山全山に山城がある。それを大野城と表記する。それは、いつから、誰が、なぜ「大野城(おおのじょう)」と表記し始めたのだろうか?


延喜5年 (905) の筑前国観世音寺資財帳には, 次のように記されている。
「御笠郡 大野城山壱處従寺以北限大野南騙辺遠賀下道 東限大野 至 川野」
とあり、905年にはすでに「大野城」という表記が成立していたことに留意しておきたい。





愚説は、こうである。まず、上掲した地図に見るとおり、「扇屋敷」とある。「扇=おうぎ」であると理解したい。

とすれば、次の図式が想定される。

「おおぎ」(大+城)の和名⇒「大城」の漢字表記⇒「おお+の+ぎ(大城)」の「の」挿入⇒「大+の+城」の「城」の音読み⇒「大+野+城(jo)」の「の」の漢字表記⇒大野城(oo + no+jo)の成立

愚考するに、四天王山に山城を建設したとき、大宰府の人々にとって、その城は「大城」であり、「小城」は基山に築かれた「基肄城」(筑紫野市)であったにちがいない。とすれば、

「こぎ⇒このぎ(小城)⇒小+の+城(しろ)⇒子野城(このじょう)」であったにちがいないが、残念ながらこの語形を持つ地名は見あたらない。後考を俟ちたい。

水城の建設で用いられた物差しは?

一般的な知識として、

*水城:全長約1キロメートル、基底部幅40メートル、高さ13メートル

であるが、では、古代の土木設計担当者が手にしていた「尺」はどのような物であったのか。

なぜ、13メートルか。

九州縦貫自動車道路建設に伴う、1972年6月から9月にかけて実施された水城の構造調査では、

1,土塁の台形状幅40メートル
2,高さ3メートルの積み土の中央部に幅23メートルに高さ7メートルの台形を積み重ねる2段築成
3,この積土をさらに切断すると、粘土と山砂を向後に積み上げる工法、つまり版築。
4,積土の最下層に基礎として厚さ0.8メートルの黒色粘土を使用

とあるが、この土木担当者ははたしてどのような物差しを使用しただろうか。


2016年7月3日日曜日

徐公祐と『高野雑筆集』--852年頃の大宰府

大中6年(852)の大宰府鴻盧館の動静を知る資料がある。


大谷大学所蔵の『高野雑筆集』がそれである。

解説
空海の遺文を集めた書簡集。全72編。編者・成立年は未詳。内容は、空海が唐から請来した密教経論の複写や仏法流布への援助、紙や筆の所望などで、空海の思想が窺える。奥書から平安後期の勧修寺理趣院範杲の書写で、朱印記から高山寺旧蔵であることがわかる。本品は現存最古の写本。


■員数
2冊
■材質
紙本墨書
■形状
粘葉装
■法量
各縦28.0×横15.9
■時代
日本・平安時代(承安元=1171)

本書は空海研究に重要だが、その一方で本書下巻に義空宛書翰18通が所収されていることに注目したい。

高木訷元氏の研究によって判明していることであるが(「唐僧義空の来朝をめぐる諸問題」『高野山大学論叢』16合、1981年)、

1,徐公直から義空(5月27日)
2,徐公直から義空・道昉(5月27日)
3,徐公祐から義空(9月11日)
4,唐僧雲叙から義空(大中3年6月7日)
5,日本僧真寂から義空(9月13日)
6,李隣から義空(4月3日)
7,唐僧志円から義空(3月29日)
8,唐僧趙度から義空(5月27日)
9,唐僧趙度から義空(5月27日)
10,唐僧法満から義空(月日欠)
11,唐僧無無から義空(10月14日)
12,廖公著から某(9月14日)
13,徐公直から義空(大中6年5月22日)
14,徐公祐から義空(閏11月24日)
15,徐公祐から義空(10月15日)
16,徐公祐から義空(6月30日)
17,徐公祐から胡婆(6月30日)
18,徐公祐から義空(10月21日)


この16番(下巻27丁うら)には
「吾6月初発明州之□(弐拾)到鴻盧館」

とあり、徐公祐は明州を6月初めに出発し、20日に大宰府鴻盧館に到着したという。なお、同書簡には、徐公祐の「蘇州田稲32年全不収、用本至多」とあり、彼の出身地が蘇州であったと推定して良いだろう。17番には「州宅中婆満福、何父母並満福」ともあり、蘇州の自宅に一族が居住していたと考えて誤りは無い(「天台宗延暦寺座主円珍伝」『続群書類聚』巻212)参照のこと)。


18番(下巻28丁おもて)には、

「即此公祐在客之下、諸弊可悉、前月中京使至、竟謝垂情、特賜札示」

とあり、9月に京から唐物使が大宰府に到着した。それゆえに、徐公祐は6月20日から同年10月21日頃までは確実に大宰府に滞在していたらしい。その確実な滞在期間は不明であるが、例年、唐人商客らは6月に来訪し、10月から11月に帰国したので、それに反しない。貿易商人にとって、京都からの唐物使による購入が完了すれば、大宰府滞在の要はない。

ところで『日本三大実録』元慶3年(879)10月13日に、
「先是、府司申請、毎唐人来、募貨物直、借用庫物、交関畢後、以砂金、准官給綿、惣計返納」
とあり、その唐物購入の支払い方を推測させる。