2025年8月2日土曜日

河内国の半島系渡来人・百済人---法興寺創建時の(つまり百済からやって来た瓦博士たちが造った瓦)が、なんと約170枚も

 河内国に在住した半島系渡来人の中でも百済人集住地は、次の地名から推定できる。


①『日本書紀』:「石川百済村」(「石川大伴村」付近であるので、富田林市北大伴・南大伴付近)、「下百済河田村」(富田林市北甲田・南甲田・宮甲田付近)

『倭名類聚抄』:「河内国錦部郡百済郷」(現在の富田林市大字錦織付近か)


こうした場所に、『日本書紀』崇峻天皇元年(588)条に、

元年春三月、立大伴糠手連女小手子、爲妃、是生蜂子皇子與錦代皇女。是歲、百濟國遣使幷僧惠總・令斤・惠寔等、獻佛舍利。百濟國遣恩率首信・德率蓋文・那率福富味身等、進調、幷獻佛舍利・僧聆照律師・令威・惠衆・惠宿・道嚴・令開等・寺工太良未太・文賈古子・鑪盤博士將德白昧淳・瓦博士麻奈文奴・陽貴文・㥄貴文・昔麻帝彌・畫工白加。」


とあるように、百済から

1,仏舎利を携えた恵総ら六人の僧

2,寺工・太良未太、文賈古子

3,鑪盤博士將德・白昧淳

4,瓦博士・麻奈文奴、陽貴文、㥄貴文、昔麻帝弥

5,画工・白加

が河内国百済郷に来住したにちがいない。


<参考資料①>『日本書紀』薇辰天皇12年条

十二年秋七月丁酉朔、詔曰「屬我先考天皇之世、新羅滅內官家之國。天國排開廣庭天皇廿三年、任那爲新羅所滅、故云新羅滅我內官家也。先考天皇謀復任那、不果而崩、不成其志。是以、朕當奉助神謀復興任那。今在百濟、火葦北國造阿利斯登子達率日羅、賢而有勇。故、朕欲與其人相計。」乃遣紀國造押勝與吉備海部直羽嶋、喚於百濟。冬十月、紀國造押勝等還自百濟、復命於朝曰「百濟國主、奉惜日羅、不肯聽上。」

是歲、復遣吉備海部直羽嶋、召日羅於百濟。羽嶋既之百濟、欲先私見日羅、獨自向家門底。俄而有家裏來韓婦、用韓語言「以汝之根、入我根內。」卽入家去。羽嶋便覺其意、隨後而入。於是、日羅迎來、把手使坐於座、密告之曰「僕竊聞之、百濟國主奉疑、天朝奉遣臣後留而弗還。所以、奉惜、不肯奉進。宜宣勅時、現嚴猛色、催急召焉。」羽嶋、乃依其計而召日羅。

於是、百濟國主、怖畏天朝不敢違勅、奉遣以日羅・恩率・德爾・余怒・奇奴知・參官・柁師德率次干德・水手等若干人。日羅等、行到吉備兒嶋屯倉。朝庭遣大伴糠手子連而慰勞焉、復遣大夫等於難波館使訪日羅。是時、日羅被甲乘馬到門底下、乃進廳前、進退跪拜、歎恨而曰「於檜隈宮御㝢天皇之世、我君大伴金村大連、奉爲國家使於海表。火葦北國造刑部靫部阿利斯登之子・臣達率日羅、聞天皇召、恐畏來朝。」乃解其甲、奉於天皇。乃營館於阿斗桑市、使住日羅、供給隨欲。

復遣阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連而問國政於日羅、日羅對言「天皇所以治天下政、要須護養黎民、何遽興兵翻將失滅。故、今合議者、仕奉朝列臣連二造二造者國造伴造也下及百姓、悉皆饒富令無所乏。如此三年、足食足兵、以悅使民、不憚水火同恤國難。然後、多造船舶、毎津列置、使觀客人令生恐懼。爾乃、以能使、使於百濟召其國王。若不來者、召其太佐平・王子等來。卽自然心生欽伏。後、應問罪。」

又奏言「百濟人謀言、有船三百、欲請筑紫。若其實請、宜陽賜予。然則百濟、欲新造國必先以女人・小子載船而至。國家望於此時、壹伎・對馬多置伏兵、候至而殺。莫翻被詐、毎於要害之所堅築壘塞矣。」

於是、恩率・參官臨罷國時舊本、以恩率爲一人以參官爲一人也竊語德爾等、言「計吾過筑紫許、汝等偸殺日羅者、吾具白王當賜高爵身及妻子垂榮於後。」德爾・余奴、皆聽許焉。參官等遂發途於血鹿。於是、日羅、自桑市村遷難波館。德爾等、晝夜相計將欲殺。時、日羅、身光有如火焰、由是德爾等恐而不殺。遂於十二月晦、候失光、殺。日羅、更蘇生曰「此是、我駈使奴等所爲、非新羅也。」言畢而死。屬是時、有新羅使。故、云爾也。

天皇、詔贄子大連・糠手子連令收葬於小郡西畔丘前、以其妻子・水手等居于石川。於是、大伴糠手子連議曰「聚居一處、恐生其變。」乃以妻子居于石川百濟村、水手等居于石川大伴村。收縛德爾等、置於下百濟阿田村。遣數大夫推問其事、德爾等伏罪言「信是、恩率・參官教使爲也。僕等、爲人之下不敢違矣。」

由是、下獄、復命於朝庭。乃遣使於葦北、悉召日羅眷屬、賜德爾等任情決罪。是時、葦北君等、受而皆殺、投彌賣嶋。彌賣嶋、蓋姬嶋也。以日羅、移葬於葦北。於後、海畔者言「恩率之船、被風沒海。參官之船、漂泊津嶋、乃始得歸。」


<資料②>『倭名類聚抄』

摂津国百済郡東部
摂津国百済郡南部
摂津国百済郡西郡


<資料③>古市晃「摂津国百済郡の郡域と成立年代」『大阪の歴史』第56号、大阪市史料調査会、2000年3月

<資料④>
鎌倉時代(元興寺極楽坊造営事という棟札より寛元2年(1244)と推定)に創建された元興寺極楽坊は、

現存する元興寺極 楽坊は,飛鳥寺搬入瓦や奈良時代創建瓦,さらには飛鳥寺創建期部材(巻斗の一部)の存在に も象徴されるように,奈良時代の南都七大寺である主要寺院の僧房建造物の構造を良く留めな がらも,大修造を受けた中世期を代表する寺院建造物の一つとして広く知られている。」(北野 信彦・狭川 真一 ・窪寺 茂著「元興寺五重小塔の外観塗装材料に関する調査」『保存科学 』No.47、53頁、2008年)

であったという。そして、
「(1)奈良時代の当初材はいずれもヒノキ材(写真22)であるが,この部材直上には赤い色 相が強い中空円筒状の特異な形態を有する「パイプ状ベンガラ」が極めて密集した集合状態で確 認された。このパイプ状ベンガラはそれ以降の鎌倉・江戸・明治時代以降の取替えの後補部材 の外観塗装材料には観察されなかった。そのため,この「パイプ状ベンガラ」は奈良時代に作成 された元興寺五重小塔の当初の外観塗装材料である可能性が指摘される。」(上掲論文、66頁)


今、浅学菲才であるので、飛鳥寺搬入瓦や奈良時代創建瓦の残存枚数を知らないが、

三州瓦の愛知県陶器瓦工業組合公式サイトによると、次のようにある。
 「それは西暦588年以降のことと考えられています。『日本書紀』の崇峻元年(588)のところに、「百済国が仏舎利や僧などとともに、寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん/仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名をおくってきた」という意味の記述があり、彼ら(およびその指導を受けた日本の職人)の手により、法興寺(飛鳥寺)が造営されたこと(完成は596年)が、考古学的な研究からも明らかになっているからです。
  さてここで、驚きの事実があります。法興寺は飛鳥から平城京に都が移った際(710年)に、現在の奈良市に移転され、名も元興寺と改められました。このとき建造物の一部や瓦もこちらに移されています。昭和30年代にこの元興寺の極楽坊本堂と禅室の解体修理が行われましたが、このとき確認された事実が驚くべきものだったのです。屋根から降ろされた4413枚の瓦のうち、法興寺から運ばれたものが約600枚、 そのうち法興寺創建時の(つまり百済からやって来た瓦博士たちが造った瓦)が、なんと約170枚も使われていたのです
  1400年にもわたって現役であり続けた瓦! 当時の瓦製造技術がいかに優れたものであったかが分かるというものです。」


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