2025年8月31日日曜日

古代寺院に葺かれた同一の瓦当箔の研究ーー谷川遼氏の研究紹介(軒平⽡の⽂様から、下野薬師寺軒平⽡202型式と平城6682E 型式・播磨溝口廃寺が同笵

 『扶桑略記』 持統6 年 (692) 条に、 日本全国に 545寺が建立されたとある。これだけの膨大な寺院建立にあたり、545種類の瓦当が製作されたとはとうてい考え難い。

 すでに 1974 年 に発表された岡本東三氏の古典的論文 「同箔軒平瓦について一下野薬師寺と 播磨溝口廃寺一」 (『考古学雑誌』60-1、83-92頁、1974年)は古代寺院造営技術者と同一の瓦当箔(型)に焦点を当てた画期的論文であった。 つまり下野薬師寺と播磨溝口廃寺姫路市北東部に位置する香寺町溝口に所在し、旧神前郡を代表する寺院)を代表する古代寺院跡から出土した軒平瓦が平城宮6682E型式と同一の箔型(鋳型=文様)であると解明し、中央政府のコントロールの下で寺院造営者の派遣を論じた。

その後、1994年 (平成6)、 山崎信二氏によって、下野薬師寺、 播磨の溝口廃寺に加えて、さらに同一の同箔軒瓦が興福寺でも出土すると報告された。山崎氏によれば、岡本説の訂正を必要として、3寺院 同一の同箔軒瓦は官司ではなく、 興福寺の関係者(例えば藤原氏)が想定できるとした。

ところで、 平城宮跡発掘調査部著「平城宮・京と同箔・異箔の軒瓦 」(科研費「

によると、

 A同箔瓦 

①近江膳所廃寺の南5~6 0 0 mの地出土6 2 3 5 B--平城宮6 2 3 5 Bと同植一一一保良宮の瓦だろう 

②河内国分寺及び河内百済寺6 6 6 3 H-平城薬師寺6 6 6 3 Hと同施一国分寺例が古い

 ③丹波国分寺6 2 3 6 , . 6 7 2 5 A 一唐招提寺金堂6 2 3 6 , . 6 7 2 5 Aと同施一箔・工人の移動 

④伊予国分寺6 3 0 4 ,- 大安寺6 3 0 4 , と同箔一近世・近代に瓦が運ばれたものか 

⑤下野薬師寺6 6 8 2 E 一興福寺6 6 8 2 E 一播磨本町遺跡6 6 8 2 E-播磨溝口廃寺6 6 8 2 E 

⑥下野薬師寺6 3 0 7 新種一一興福寺6 3 0 7 新種一播磨溝口廃寺6 3 0 7 新種--⑤・⑥は組み合う 

⑦壱岐嶋分寺6 2 8 4 A-平城宮6 2 8 4 Aと同施一施型の移動 ③豊前椿市廃寺6 2 8 4 F-平城宮6 2 8 4 Fと同施一施型の移動 ⑨伊勢御麻生蘭廃寺6 2 3 5 B-平城宮6 2 3 5 B と同施一一保良宮廃止後箔型が伊勢へ 

⑩伊勢長者屋敷6 7 1 9 A 一平城宮6 7 1 9 Aと同値一箔型の移動

 ⑪河内新堂廃寺6 6 6 7 A-法華寺下鳩6 6 6 7 Aと同箔-1孫犬養橘宿禰三千代の本貫地

 ⑫河内新堂廃寺6 6 7 1 A 一興福寺6 6 7 1 Aと同施 


B異箔瓦(拓本・写其の比較では同箔・異施が判断できず,現物相互の比較で異施と判明)

 ①信濃国分寺軒丸瓦一一東大寺6 2 3 5 Aに酷似一工人の移動 ②伊賀三田廃寺軒丸瓦一東大寺6 2 3 5 Aに酷似一一工人の移動 

③備前幡多廃寺軒丸瓦一平城宮に6 2 2 5 C 酷似 


C異箔瓦(型式番号だけでなく種まで,その類似した瓦が明確に確定できる。原型に類似) 

①信濃国分寺軒平瓦一平城京6 7 3 4 A に類似

 ②伊賀三田廃寺軒平瓦一東大寺6 7 3 2 E に類似

 ③美作国府・国分寺・国分尼寺軒丸瓦・軒平瓦一平城宮6 2 2 5 C・6 6 6 3 C に類似

 ④駿河片1 1 1 廃寺軒平瓦一平城宮6 6 6 3 C に類似 

⑤備後岡遺跡他軒丸瓦一瀬後谷瓦窯6 3 1 6 新種に類似」

AN00181387_1993_38.pdf

とまで解明されている。この山崎氏の調査結果はその後の研究でさらに増加しているに違いないが。山崎氏自身の整理によると、以下のように取りまとめられる。科研費(一般研究C「都城・国分・国府・三関・その他の寺院における八世紀同笵軒瓦の系統的研究」(1993 – 1994、研究課題 05610339)


キーワード同笵 / 同型式 / 桶巻作り / 軒平瓦の製作方法 / 瓦工人の移動 / 笵型の移動 / 瓦自体の移動 / 瓦生産組織 / 軒瓦の同笵関係 / 文様の類似度順 / 都城の瓦の生産地 / 板作りと紐作り軒平瓦 / 笵型移動、瓦自体の移動 / 技法上の類似性 / 国分寺瓦の文様構成上の分類 / 丸瓦の変遷とその地域差 / 技法的な類似性 / 笵型移動・瓦自体の移動 / 造宮卿藤原武智麻呂 / 畿内系の瓦工人の招来 / 国家地方財政による造営 / 片切り彫りによる軒平瓦 / 造東大寺司に属する瓦工人
研究概要

まず、平城宮・京と遠隔地とで同笵関係にある軒瓦の調査をおこない、(1)近江膳所廃寺南(保良宮推定地)と平城宮6235B・6691B、6763A、(2)河内国分寺と平城薬師寺6663H、(3)丹波国分寺と唐招堤寺6236D-6725A、(4)伊予国分寺と大安寺6304D、(5)(6)下野薬師寺・播磨溝口廃寺と大和興福寺6307J-6682E、(7)壱岐嶋分寺と平城宮6284A、(8)豊前椿市廃寺と平城宮6284F、(9)伊勢御麻薗廃寺と平城宮6235B、(10)伊勢広瀬長者屋敷と平城宮6719A、(11)河内新堂廃寺と興福寺・法華寺下層6667A・6671Aの同笵を確認した。以上のような同笵関係の生じる理由は大きく三つの場合に分けられる。第1に、瓦工人の移動で、笵型を持って移動したもの(実例(3)(5)(6)など)。第2に、笵型のみの移動(実例(7)(8)(9)(10)など)。第3に、瓦自体が移動したもの(藤原宮の瓦について後述)。また同笵関係が生じる理由について個々で分析を加えた。
次に平城宮式軒瓦を分類し、A型(同笵)、B型(以下異笵:現物照合によってはじめて異笵と判明するほど酷似する)、C型(型式番号だけでなく種まで確定できる)、D型(種の類似点まで確定できない)、E型(どの瓦をイメージしたかが推定できる)、F型(軒丸瓦か軒平瓦の一方が、全く異なる文様構成をもつ)に分けた。B型が信濃、C型が美作、E型が上総、F型が駿河(それぞれ国分寺出土例)である。
また、藤原宮瓦と同笵関係にある近江・和泉・讃岐・淡路の瓦の再整理を行ない、それぞれの生産地から藤原宮へ瓦を運んでいることを明らかにした。また、讃岐東部の資料(願興寺出土)と山城の資料(大宅廃寺)が藤原宮瓦と同笵であることを新たに発見した。また、藤原宮式・老司式軒平瓦の出現と共に、大和・筑前・肥後・尾張の地において、従来の板作り軒平瓦から紐作り軒平瓦に突然一斉に変化することを明らかにした。」

このように、軒⽡の⽂様系譜及び同笵関係ら分布研究が盛⾏し、それと共に編年作業が活発化した。さらにその研究成果の上に、造⽡⼯⼈集団の系統関係を推測するに至った。

 こうした一連の研究が展開される中で、谷川遼氏の研究は注目される(⾕川 遼(奈良県⽴橿原考古学研究所「造⽡器具からみる造⽡⼯⼈集団・⼯⼈単位 」「⽡研究の⾰新は東国古代史理解に何をもたらすのか−技法・様式・⼯⼈集団−」 予稿集 2025年3⽉28⽇ 編集・刊⾏:⽇本学術振興会科学研究費基盤研究(B)24K00142 「考古学ビッグデータの統合と3D-GISによる古代寺院』、8-11頁、)。冒頭で言及したように、

軒平⽡の⽂様から、下野薬師寺軒平⽡202型式と平城6682E 型式・播磨溝口廃寺が同笵である

ことは妥当な結論であるが、研究の深化によって、

*下野薬師寺へ⽡を供給した⽡窯が乙女不動原瓦窯 であると判明

したことに伴い、さらに一歩進めて、谷川氏によると乙女不動原瓦窯では

 「平⽡は「⼩型桶」(図2)と「⼤型桶1」(図3)を使⽤して製作される。叩き板は2種で 出⼟平⽡の9割以上を占める。2⼤別4細分できる。2系統の⼯⼈集団、各系統に2つの⼯ ⼈単位、⽡窯全体で4つの⼯⼈単位が存在する(⾕川2019)。」

(⾕川 遼2019「東国古代寺院における⽡⽣産―下野国造薬師寺司の⽡⼯集団―」『 史 観 』 180、早稲⽥⼤学史 学会、2019)

と推定する。


今回は、ここまでで擱筆したい。



<参考>

『日本書紀』崇峻元年 (588) に蘇我氏の飛鳥寺に始まった。この造営では、

 崇峻元年 (588) に蘇我氏の飛鳥寺に始まった。この造営では、 百済から僧侶、 建築工、 鑪盤工、 造瓦工、 画工らを招来して行われた。百済から僧侶、 建築工、 鑪盤工、 造瓦工、 画工らを招来して行われた。


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