『日本書紀』斉明天皇元年条の
「秋七月己巳朔己卯、於難波朝饗北北越蝦夷九十九人・東東陸奧蝦夷九十五人、幷設百濟調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人、冠各二階。」
とある。著名な記事であるので、改めての解説は不要であろう。我々の興味からすれば、
*蝦夷と百済調使
とを難波朝に招待する饗宴の目的にあるが、それはここで通説通りの理解、すなわち天皇への異民族の服属儀礼に留め、一旦保留にしておきたい。ただし、この二つのグループを招待した饗宴が偶然と見るのはあまりにも難波朝サイドの意図を軽視したと考えざるを得ないのではあるまいか。やはり百済調使の来日に合わせて、北越蝦夷九十九人と東陸奧蝦夷九十五人とを難波に参集させたと考えて不自然さはない。その逆は想定しがたい。
なお、上記の記事そのものを観察すると、
北越蝦夷九十九人ーー柵養蝦夷九人
東陸奧蝦夷九十五人ーー津刈蝦夷六人
とが構造的対応していることに異論はない。
この記述を通して、北越蝦夷が日本海側の渟足柵(647)、磐舟柵(648)、都岐沙羅柵(658)と境を接する地域に居住していた蝦夷とみなしても不自然さはない。しかも彼らを中央政府では「柵養蝦夷」と呼称するのであるから、早くから天皇の敵対勢力ではなく、むしろ恭順な姿勢と協力関係にあったと考えてよいだろう。
この想定と符合する記事は、斉明天皇紀4年の
「夏四月、阿陪臣闕名率船師一百八十艘伐蝦夷、齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降。於是、勒軍陳船於齶田浦、齶田蝦夷恩荷進而誓曰「不爲官軍故持弓矢、但奴等性食肉故持。若爲官軍以儲弓失、齶田浦神知矣。將淸白心仕官朝矣。」仍授恩荷以小乙上、定渟代・津輕二郡々領。遂於有間濱、召聚渡嶋蝦夷等、大饗而歸」
である。
一方、東陸奧蝦夷九十五人の場合、現在の津軽地域に限らず、京から遠方に居住していた蝦夷を「津刈蝦夷」と呼称していた場合、東山道以北の今なお不服従の地域(現在の東北地域)を飛び越して、一足飛びに都に将来するに便利な地となる。この地理的位置を考えるならば、論証もなく自説を提示して混乱を与えるかもしれないが、彼ら「津刈蝦夷」は北海道から渡海し、続縄文系文化要素を有する通商の民ではなかっただろうか。8世紀に「38年戦争」を繰り広げ、死闘を交わした地域に居住していた蝦夷とは異なり、「服従-不服従」の関係ではないカテゴリーに属する「利益-損益」関係で成立するビジネス・パートナーに近い関係ではなかったかと推定している。むろん現在の東北地域に、そのようなカテゴリー関係の蝦夷が、例えば現在の仙北付近にいたならば、その人々を都に招いたかもしれない。
少なくとも北越蝦夷九十九人と東陸奧蝦夷九十五人(「渡蝦夷も含まれていたか?)とは可視的にグルーピングできるほどの文化差を有していたに違いない。特に衣服・ヘアースタイル・文身・履物・装身具のみならず公演の場でのダンスや歌などにも明確な差が存在しただろう。
本稿を締めくくるにあたり、このアイディア、つまり「百済調使に対する斉明天皇のポリティカルパワーを顕示する狙いが存在したとすれば、その発案者は誰であっただろうか。
なお、追記するに、斉明紀5年の
「秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博德書曰「同天皇之世、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等二船、奉使吳唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦、八月十一日發自筑紫大津之浦。九月十三日行到百濟南畔之嶋、嶋名毋分明。以十四日寅時、二船相從放出大海。十五日日入之時、石布連船、横遭逆風漂到南海之嶋、嶋名爾加委。仍爲嶋人所滅、便東漢長直阿利麻・坂合部連稻積等五人、盜乘嶋人之船、逃到括州。州縣官人、送到洛陽之京。十六日夜半之時、吉祥連船、行到越州會稽縣須岸山。東北風、風太急。廿二日行到餘姚縣、所乘大船及諸調度之物、留着彼處。潤十月一日行到越州之底。十五日乘驛入京。廿九日馳到東京、天子在東京。卅日、天子相見問訊之、日本國天皇平安以不。使人謹答、天地合德、自得平安。天子問曰、執事卿等好在以不。使人謹答、天皇憐重亦得好在。天子問曰、國內平不。使人謹答、治稱天地萬民無事。天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷毎歲入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異極理喜怪、使人遠來辛苦、退在館裏、後更相見。十一月一日朝有冬至之會。會日亦覲、所朝諸蕃之中倭客最勝、後由出火之亂棄而不復檢。十二月三日、韓智興傔人西漢大麻呂、枉讒我客。客等、獲罪唐朝已決流罪、前流智興於三千里之外、客中有伊吉連博德奏、因卽免罪。事了之後、勅旨、國家來年必有海東之政、汝等倭客不得東歸。遂匿西京幽置別處、閉戸防禁、不許東西、困苦經年。」難波吉士男人書曰「向大唐大使觸嶋而覆、副使親覲天子奉示蝦夷。於是、蝦夷以白鹿皮一・弓三・箭八十獻于天子。」」
は忘れないでおきたい。この記事によれば、「使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷」とある。「津刈」は「都加留」であるが、「遠者」と記し、蝦夷の3分類基準を都からの地理的近い遠いで考慮しているとみられる。そして「次者~、近者~」とする一方で「麁、~熟」の対立項も導入していることに注目しておきたい。
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