周知のように、大宰府には観世音寺が存在する。往古に比較すれば、その寺域にせよ建物にせよ、さらには仏像などの仏教関連品にせよ、当然ながら寺にて勤行する僧侶の数にせよ。それは比較にならないほど少ない。
ところで、宮城県多賀城市の多賀城廃寺発掘調査の結果、飛鳥寺式伽藍配置、四天王寺式伽藍配置、薬師寺式伽藍配置、川原寺式伽藍配置、法隆寺式伽藍配置、法起寺式伽藍配置などではなく、観世音寺式伽藍配置であると判明した。
「多賀城廃寺跡
仏教の力で東北地方の安定を図るため建てられた多賀城跡の付属寺院で、多賀城跡と同時に創建されました。
講堂を正面とし、東側に三重の塔、西側に金堂を配置し、築地塀で囲んでいます。このような配置は、多賀城跡の前身である仙台市郡山遺跡の付属寺院である郡山廃寺や大宰府の付属寺院である観世音寺と似ています。さらに、北外側には僧坊や子房、経楼や倉庫がありました。
2㎞ほど西側で、万灯会(まんとうえ)で使われた多量の土器とともに「観音寺」と墨書された土器が発掘され、多賀城廃寺は当時「かんのんじ」または「かんぜおんじ」という名前であったと考えられています」(宮城県多賀城跡調査研究所、多賀城廃寺跡 | 宮城県多賀城跡調査研究所)
(参考資料」森郁夫「わが国古代寺院の伽藍」など)
私の関心は、東西2寺の同一な伽藍配置を企画し、その建立を進めた立役者にある。
研究の緒に就いたばかりであるので、今なお陸奥国観世音寺(仮称)情報は多くないが、それでも並行して研究の必要性を感じる。
<参考資料>
井上信正「大宰府条坊の基礎的考察」『年報大宰府学』第5号、75-90頁
九州歴史資料館『観世音寺』(伽藍編 寺域編 遺物編1 遺物編2 考察編)、吉川弘文館、2007年10月、204頁
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