資料①持統紀7年11月丙戌朔庚寅、
「幸吉野宮。
壬辰、賜耽羅王子・佐平等、各有差。
乙未、車駕還宮。
己亥、遣沙門法員・善往・眞義等、試飲服近江國益須郡醴泉。
戊申、以直大肆授直廣肆引田朝臣少麻呂、仍賜食封五十戸」
資料②持統紀8年甲申朔
「日有蝕之。
乙酉、以直廣肆大宅朝臣麻呂・勤大貳臺忌寸八嶋・黃書連本實等、拜鑄錢司。甲午、詔曰「凡以無位人任郡司者、以進廣貳授大領、以進大參授小領。」
己亥、詔曰「粤以七年歲次癸巳、醴泉涌於近江國益須郡都賀山。諸疾病人停宿益須寺而療差者衆。故入水田四町・布六十端、原除益須郡今年調役雜徭、國司頭至目進位一階。賜其初驗醴泉者、葛野羽衝・百濟土羅々女、人絁二匹・布十端・鍬十口。
乙巳、奉幣於諸社。丙午、賜神祇官頭至祝部等一百六十四人絁布、各有差」
この二つの資料を照合すると、近江国益須郡都賀山に醴泉が発見された。その醴泉で、益須寺に停宿する多数の病人「 諸疾病人」が治療された。醴泉を発見した 葛野羽衝と百済土羅羅女に、「絁二匹・布十端・鍬十口」を与えている。
さて、ここで注目するのは、百済人(「百濟土羅々女)
が醴泉を発見したことである。「醴」とは文字通り口でかんで作る酒であるが、この場合、都賀山から湧き出る鉱泉を指すと理解してよいだろう。
その泉の水でもろもろの疾病が治癒され、その泉は百済人によって発見されたというエピソードを語る。
ちなみに朝鮮半島には、
*大韓民国慶尚北道醴泉郡예천군
が存在するが、郡の成立は757年。
むしろ貞観6年(632年)に唐太宗が陝西省に位置する「九成宮」に湧き出た醴泉(甘泉)を記念して建立された「九成宮醴泉銘」に由来するか、存疑。
<参考論文:大崎康文「醴泉近江国益須郡都賀山に湧く」 『史想』紫郊史学会、2008年、未見))
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