2025年8月13日水曜日

『延喜式』度量衡覚え書きーー

 日本の度量衡制に関する研究は狩谷披斎著『本朝度星権衡致』(東京国立博物館蔵、袋綴、26.8×18.6、、2冊)に詳しい。

そして、古代関東地方の度量衡制に関する論は福田聖氏の研究が重要である。

「閃東地方出土の古代権衡資料」『埼玉県埋蔵文化財調査事業団研究紀要、』171-190頁、1997年


 やはり出発点は『延喜式』雑令度十分条の

「権衡。甘四 為両。三為大一両。 十六両。」

であり、雑令度地条の

「凡度地、量銀銅穀者、皆用大。此外。官私悉用小者。」

である。


そもそも大宝令の度量衡は

1、1斤(16 両)

2,1両(24 銖)

3、 銖ーー 大 1 両は小 3 両(唐制)

<参考:「1石=4鈞、1鈞=30斤、1斤=16両。1両=24銖>

であった。福田氏によると

「『拾介抄』の中でも斤目に大小があり、胡粉、白鎮、銅鐵、絲絹江、罷芳には 大目を用い、金銀、水精、貴木、香、金青、緑青、陶砂には小目」を用いたという。」(福田、172頁)

大 1 両は 37.5 g, 小 1 両は 12.5 g である(小泉, 1982)


ところで、中井公氏によると、

「正倉院蔵の有銘銀器、献納宝物帳に重量が記載されている鏡を計量した データ(松嶋1989) をもとに、奈良時代における 1斤が銀器からでは656.67~695.65 gで平均670.91 g、 1両41. 04~43.48gで平均41. 93 g、鏡からでは 1斤649.37~693.1gで平均670.19g、 1両 40.59~43.32 gで平均41. 89 gであると主張した。」(福田、174頁)という。

また、これも福田論文の転載であるが、

「木本氏のリストからは、練金、金、水銀、銅、熟銅、鐵精、(雑)産巖堅鐵、鐵 茎、鐵筋、鏡(類)、釘(類)、滅金、銀、銀薫櫨、鑑銀、白銅、藍花壷、戸坪、綿(類)、絲(類)、 熟麻、布(類)、麻(類)、木綿(類)、紫草、苅安草、干菫、白綿、鹿毛、海藻、滑海藻、白鎮、丹 洗砕、白莫石、黄築、苧、冶葛、桂心、温石、太黄、紫雪、遠志、甘草、穴継容、胡枡、心太、茫 消、畢揆、阿膠、人参、犀角(類)、猪膏、雌黄、厚朴、狼青、白緑、緑青、膠、胡粉、丹(類)、 中緑、紫鎖、嬰麟血、紅花、蘇芳、茜、黄櫨、白沙、石灰、伺沙、朱沙、紫土、赤土、埴、薫陸、 香(類)、煎香、青木香、著薩香、浅香、鑓密、組花、臆密、膜」(福田、173頁)

が計量されていたらしい。

 さて、我々の関心は日本国内の東西物流ネットワークにおける度量衡制である。はたして国内の度量衡が定量であったのか不定量であったのか、そして朝鮮半島からの将来品、また中国大陸からの将来品、さらには主に秋田城で主宰された北方からの将来品などはどのように検量されたのだろうか、という疑問から出発する。

 ここでは、それらの問題関心を解明することとしたい。




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702年  度量衡を全国に頒布(『続日本紀』同年三月壬申条 )

704年    斗枡を諸国に頒布(伊呂波字類抄)

 705年    諸国に斗合枡を頒布(帝王編年記)

 707年    斗枡を諸国に頒布(一代要記)

 714年  布2丈6寸を段となす(続日本紀) 

 719年  絹・紙の寸法を長さ6丈、幅1尺9寸と定む(続日本紀)

 720年  尺様を諸国に頒つ(続日本紀) 

 735年  入唐留学生吉備真備が朝廷に測影鉄尺を献ずる(続日本紀) 

 736年  諸国の調布の長さを2丈8尺、幅1尺9寸と定める(続日本紀)


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<参考資料①>

木下正史

KAKEN — 研究課題をさがす | 古代日本における度量衡制度の起源と展開の研究 (KAKENHI-PROJECT-09610402)

物指 / 高麗尺と唐尺 / 度地尺と常用尺 / 飛鳥の宮都 / 鋳貨と度量衡制 / 大宝令制 / 律令制中央集権国家 / 高麗尺 / 唐尺 / 大宝令度量衡制 / 大尺・小尺 / 領域支配体制 / 条坊制 / 田積法 / 「斗升両」計量制
研究概要

1、飛鳥・難波・大津・藤原・平城等の宮都、中央寺院における建築・条坊遺構を中心に、尺度関係資料を収集し分析を行った。その結果、6世紀末に宮殿や寺院の建設等に高麗尺が使用され始め、7世紀には高麗尺使用が中心であったことを明確にする共に、唐尺も7世紀中頃の難波宮、飛鳥稲淵宮殿跡、水落遺跡、山田寺等の建設、墓誌や石碑等の製作に導入されていたことを明確にした。しかし、7世紀中頃までの高麗尺の実長には偏差が大きく、かつ一施設において高麗尺と唐尺の併用も認められ、唐尺にも1尺が約30、4cmの尺と、約29、3cmの尺の二種があるなど、統一性の乏しい尺度使用の実態を明らかにした。天智・天武天皇時代に至り1尺が約29、4cmの唐尺とその1、2倍の高麗尺との度地尺、常用尺としての使用が顕著になり、尺度制の統一が進展する。孝徳〜明天皇時代と天智・天武時代とに度量衡制上の画期があったことは明らかである。大宝令による度量衡制整備・統一は唐制を導入し明文化したものだが、7世紀後半の宮都においてそれがすでに実体化されていたことを明らかにしたのは大きな成果である。また、和同開珎・富本銭について度量衡的調査、分析を行った結果、日本における鋳貨制度は中国のそれを忠実に採用したものであり、これは天智・天武天皇時代における度量衡の統一と相関することを明らかにした。7世紀後半は律令制的中央集権支配体制が大きく展開する時期であり、尺度統一の進展もこうした政治改革・情勢と相関するものである。
2、地方官衙・寺院等における度量衡関係資料を収集し分析を進めた。その結果、各地の評・郡衙、寺院等の建設において7世紀後半に唐尺使用の開始を確認すると共に、その本格的使用と実長の画一化は8世紀前半における国衙の整備とともに始まり、それが律令制中央集権国家の成立、展開過程と相関する実態を明らかにした。


<参考資料②>

企画展示室2
古代の度量衡(どりょうこう)

令和5年9月12日(火)~ 11月5日(日)

図1 奈良時代の銅製権 (元岡・桑原遺跡群出土)
図1 奈良時代の銅製権
(元岡・桑原遺跡群出土)

 度量衡(どりょうこう)の「度」は長さ、「量」は嵩(かさ)、「衡」は重さを意味します。度量、度量権衡(けんこう)などともいい、古代からつかわれる、計量に関する制度や慣習を指す用語です。

 本展では、奈良時代・平安時代を中心とした度量衡の制度、その単位や計量器を紹介します。現在の尺度と古代の尺度ではどれほどの違いがあるのでしょうか。

度量衡を定めて管理する

 日本の度量衡制度の源流は中国にあります。紀元前221年、中国ではじめての統一王朝を打ち立てた秦(しん)の始皇帝(しこうてい)は、諸国を征服したその年、「法度(ほうど)・衡石(こうせき)・丈尺(じょうしゃく)を一(いつ)」にしました(『史記(しき)』秦始皇本紀第六)。それまで国ごとに異なっていた枡(ます)(法度)・秤(はかり)(衡石)・物指(丈尺)、つまり度量衡を統一したのです。計量器を定めることは、中央集権政策のひとつに位置づけられるものでした。

 日本では、大宝(たいほう)2(702)年に「始めて度量を天下の諸国に頒(わか)つ」とした記録が残ります(『続日本紀(しょくにほんぎ)』同年三月壬申条)。全国に計量器の様(ためし)(見本)が頒布されたのでしょう。度量衡のそれぞれの単位が定められた古代の法典、大宝律令が完成した翌年のことでした。

 律令制下において度量衡を統括したのは大蔵省(おおくらしょう)です。諸国から税として物品が納入され、その管理を担う大蔵省の仕事には「権衡、度量」が挙げられています(養老職員令(ようろうしきいんりょう)33大蔵省条)。ほかにも、都の市場を管理する東西市司(いちのつかさ)、それを監督する左右京職(きょうしき)、また活発な経済活動が行われていた難波(なにわ)を監督する摂津職(せっつしき)といった官司(役所)が度量衡を管理しました。税を管理する場だけでなく、物品を取り引きする場においても、計量を掌つかさどる役人が置かれていたことがわかります。

 度量衡を管理する官司には、銅で作った計量器の様(ためし)を配置するよう決められていました。また、年に一度、官私の計量器の検定が行われ、規準に達したもののみ、印が押され、使うことが許される制度でした。しかし、検定印が押された古代の計量器の出土事例はまだありません。このことから、制度として定めても実態はそうではなかったとも考えられます。

 延暦(えんりゃく)17(798)年の勅では、諸国の役人が計量器を不正して税を多く取っているとし、大蔵省での計量の検定を徹底するよう命じています(『類聚国史(るいじゅうこくし)』巻八〇)。また、数値や目盛りが記された出土資料や伝世資料などをもとに、当時の実量は算出されていますが、その数値は一定ではなく、これまでに様々な概略値が出されています。

奈良時代の代表的な度量衡の単位とその換算値
「度」長さをはかる

 古代では、一つの単位に複数の分量が定義されることがありました。長さの単位のひとつ、尺には通常の尺の1.2倍とされた大尺があります。土地などの大きいものに限定して用いるよう律令には定められていましたが、天平(てんぴょう)年間(729―749)頃には、長さは大尺を用いることが一般的になっていたようです。

 宝亀(ほうき)元(770)年、称徳(しょうとく)天皇の発願で高さ四寸五分、台の径三寸五分の木製の小塔が百万基作られました(『続日本紀』同年四月戊午条)。奈良の法隆寺に現存する小塔の法量をはかると、その平均はそれぞれ約13.2㎝、10.4㎝と大尺の換算値に近く、小さな物に対しても大尺が使用されていたことがわかります。

 全国で似たような長さで出土するものが郡符木簡(ぐんぷもっかん)です。国の一つ下の行政単位、郡の役人が出す文書が書かれた木の札は、二尺(約60㎝)程度と通常の文書木簡の倍の大きさで各地から出土します。福岡市内でも元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群(西区)から郡符木簡と思われる長さ50㎝超の木簡が出土しています。

「量」容量をはかる

 古代につかわれた合(ごう)・升(しょう)といった単位は、米や酒をはかる単位として今でもなじみ深い尺度です。しかし、古代のその実量は現在の半分にも届きません。特に米などを計量する枡は、徴税の代表的な道具として、時々の徴税者が徴収する量を増やすために大きくする傾向にあったともみられています。

図2 奈良時代の計量器? コップ形須恵器 (手前:元岡・桑原遺跡群出土、奥:那珂遺跡群出土)
図2 奈良時代の計量器? コップ形須恵器
(手前:元岡・桑原遺跡群出土、奥:那珂遺跡群出土)

 奈良時代前期の遺構からは、現代のコップの形に似た須恵器が出土します。奈良の平城京跡などでは、コップ形須恵器の底面に「四合」など容量を示す墨書があることから、奈良時代に枡として使われたと考えられています。福岡市内では約700mlが入るコップ形須恵器、またその7倍程度の容量の大型の同形須恵器が見つかっています(図2)。

「権衡」重さをはかる
図3 棹秤の使用例
図3 棹秤の使用例

 度量衡に関係する出土資料のうち、多くを占めるものが秤(はかり)の錘(おもり)です。秤は大きく天秤(てんびん)と棹秤(さおばかり)の二種類がありました。いずれも計量したい物と錘を釣り合わせることで重さを知ることができます。複数の決まった重さの錘を増減させてその重さではかる秤が天秤、棹に懸けた一つの錘の位置を調整し、棹に記された目盛りではかる秤が棹秤(図3)です。

 古代法典の注釈書『令(りょう)の集解(しゅうげ)』によると、大蔵省が掌(つかさど)る「権衡(けんこう)」のうち、権とは懸錘(けんすい)で、衡とは横木のことだと説いています。古代の衡は出土事例がなく、断定はできませんが、吊り下げられる形状の錘(図1)が多く出土することを考えると、奈良・平安時代では棹秤が普及し使われていたのでしょう。

変わる尺度

 物の尺度というのは長さや嵩、重さだけではありません。時間や温度、電流など、計量の対象は時代を経ると拡がっていきます。近代になると世界的な標準が意識され、日本では制度上でも「度量衡」に代わって「計量」という単語がつかわれるようになっています。一方で「一寸(いっすん・ちょっと)」など、古代からつかわれる単位は今も身近に残ります。

 奈良時代に編纂された『万葉集(まんようしゅう)』には尺度を詠み込んだ歌があります。   …魂(たま)合(あ)はば 君(きみ)来(き)ますやと 我(わ)が嘆(なげ)く 八尺(やさか)の嘆き…(巻一三ー三二七六)

 会えない人を想う嘆きの溜息が数量で具体的に示されています。古代の人に心をあわせてその嘆きの深さを実感できるでしょうか。長く日本の暮らしと共にあった尺度は、昔の人びとと感覚を共有する道具にもなります。

(佐藤祐花)
展示資料

上段は順に名称/(原資料の成立年代/)作製年代/所蔵を示す。
下段は全て福岡市埋蔵文化財センター所蔵。順に名称/時代/出土遺跡名を示す。 ※は国指定重要文化財。

  • 史記評林/中国・明代/寛永一三年/寄託・木下禾大資料
  • 続日本紀/延暦一七年/明治一六年/館蔵・中山冴子資料
  • 令集解/九世紀/天保四年写/館蔵・山崎家資料(青柳種信関係資料)
  • 「新器検」印入り五合枡/近代/館蔵・岡田一資料
  • 日本後紀/承和七年/明治一六年/館蔵・中山冴子資料
  • 百万塔/宝亀元年/明治時代/加藤利枝資料
  • 物指/昭和時代/製作地・福岡/館蔵・藤村元昭資料
  • 一升枡・五合枡/近代/製作地・熊本/館蔵
  • 頭書増補 訓蒙図彙/寛政元年/館蔵・河野司資料
  • 皿秤/近代/使用地・福岡市西区西浦/館蔵
  • 携帯用棹秤/近代/使用地・福岡市西区西浦/館蔵
  • 石製錘/江戸時代/館蔵
  • 陶製分銅/昭和時代/使用地・福岡市博多区千代/館蔵
  • 真鍮製分銅/近代/館蔵・南区民俗文化財保存会資料
  • 日本書紀/養老四年/寛文九年版/館蔵
  • 万葉和歌集/奈良時代/文化二年/寄託・木下禾大資料

石製権/奈良時代/井相田C1次、滑石製権/奈良・平安時代/海の中道3次、滑石製権/平安・鎌倉時代/曰佐3次、滑石製権/平安時代ヵ/下月隈C2次、砂岩製権/奈良・平安時代/高畑17次、石製権/奈良・平安時代/多々良込田1次、瓦質権ヵ・鉛製権/奈良・平安時代/多々良込田6次、滑石製権/飛鳥・奈良時代/那珂20次、須恵器 鉢/奈良時代/那珂7次、須恵質権・滑石製権/飛鳥・奈良時代/仲島2次、滑石製権/平安時代/博多149次※、銅製権/平安~鎌倉時代/博多156次、滑石製権/平安~室町時代ヵ/博多172次、滑石製風鐸形権/平安時代末/博多183次※、銅製権/鎌倉・室町時代/博多35次※、滑石製権/平安時代/博多42次、砂岩製権/平安時代/博多85次、銅製天秤皿/鎌倉・室町時代ヵ/博多呉服町工区、銅製権/平安~室町時代ヵ/博多築港線1次、滑石製権・瓦質権/平安時代ヵ/箱崎10次、銅製権/平安時代/箱崎47次、滑石製権/平安時代/箱崎59次、石製権ヵ/古墳時代ヵ/比恵55次、粘板岩製権/奈良時代/東入部7次、木簡「魚鮨廿九斤」/奈良時代/鴻臚館跡6次、須恵器 鉢/奈良・平安時代/三宅廃寺1次、銅製権/奈良時代/元岡・桑原20次、須恵器 枡/奈良・平安時代/元岡・桑原31次、木簡「…里長…」/奈良・平安時代/元岡・桑原7次、滑石製権/平安時代ヵ/吉塚3次、石製権/奈良時代/吉塚祝町1次、石製権/奈良・平安時代/立花寺2次、木簡「荒権下米…」/奈良・平安時代/高畑8次


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<資料③>

701年、大宝令で定めた長さは小尺と呼ばれ、唐の国から持ち込まれたものでした。これとは別に、大尺という土地の測量に用いた単位も定められました。これは小尺の1・2倍で、高麗(こま)尺とも呼ばれました。翌年には標準となる定規が全国に配られました。

 藤原京や平城京からは、当時のものさしが出土しています。その中で最も精巧なのが写真の平城宮から出土したものです。これによって、小尺の長さは29・6センチ前後だったと分かります。

 1寸ごとに大きく区切り、その2分の1でさらに区切り、最も細かい目盛りは1寸の10分の1(1分)です。そして5寸のところには小さな円を描いて分かりやすくしています。これは寸とセンチの違いがありますが、今も文房具屋さんで売られている30センチの竹のものさしと同じです。千年以上続くそのデザインに驚かされます。

 もともと中国では、尺は手を開いた親指と中指までの長さ、寸は親指の幅でした。それが徐々に延びて日本に伝わり、昭和に廃止される頃に尺は30・3センチになりました。皆さんご存じ昔話の一寸法師、打ち出の小槌(こづち)が無くても少しずつ背が伸びていたのでした。

 

(41)古代のものさし.jpg

平城宮跡から出土した古代のものさし

(奈良文化財研究所主任研究員 黒坂貴裕)

(読売新聞2014年2月2日掲載)


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『亀山市史』

度量衡換算表



度量衡(どりょうこう)換算表

 度(長さ・里程)

1丈(じょう)=10尺(しゃく)=100寸(すん)=1,000分(ぶ)=10,000厘(りん)、
1丈10尺、1尺10寸、1寸10分、1分10厘
1里(り)=36町(ちょう)=2,160間(けん)=12,960尺、
1町=60間、1間6尺


1寸3.030303㎝(約3㎝)1㎝=3分3厘
1m=3尺3寸
1㎞=550間
     (9町10間)
1尺0.3030303m(約30㎝)
1丈3.030303m(約3m)

1間1.8181818m(約1.8m)
1町0.1090909㎞(約100m)
1里3.9272727㎞(約4㎞)




 量(容量・体積)

1石(こく)=10斗(と)=100升(しょう)=1,000合(ごう)=10,000勺=100,000才=1,000,000弗、
1斗=10升、1升=10合、1合=10勺、1勺=10才、1才=10弗

1合0.18039L(約0.18L)1L=0.55435升(約5合)
1升1.8039L(約1.8L)
1斗18.039L(約18L)
1石0.18093KL(約0.18KL)
米俵2俵半(1俵約60㎞))



 衡(重さ)

1貫(かん)=1,000匁(もんめ)=10,000分(ぶ)=100,000厘(りん)、
1匁=10分、1分=10厘
1斤(きん)=16両(りょう)=64分(ぶ)=384銖(しゅ)
1両=4分、1分=6銖

1貫3.75㎏1g=0.26667匁
1㎏=0.26667貫
     (1.66667斤)
1t=266.667貫
     (1666.67斤)
1匁3.75g
1斤
(160匁)
600g
1両38.5g
1分9.2g
1銖1.6g



面積

1町(ちょう)=10反〈段〉(たん)=100畝(せ)=3,000歩(ぶ)=3,000坪(つぼ)
1反=10畝=300坪、1畝=30歩(坪)

1歩(坪)3.30579㎡(約3.3㎡)1町歩=99.174r
1畝歩=0.99r
1畝99.1736㎡(約99㎡)
1反(段)991.736㎡
1町9917.36㎡



貨幣の換算率

金の単位:両・歩(分)・朱
銀の単位:貫・匁・分・厘・毛
銭の単位:貫・文

金 1両(りょう)=4歩(ぶ)=16朱(しゅ)=銀50匁=銭4貫文、
1歩(分)=4朱
銀1貫=1,000匁
銭1貫=1,000匁

2025年8月5日火曜日

市川理恵先生の論文リストーー「平城京東西市における市司と市人」『東京大学史料編纂所研究紀要 』28 、1-13頁、 2018年3月

 市川理恵先生の論文リスト(その一部)


私見であるが、市川先生の玉稿の中で、特に

平城京東西市における市司と市人 

市川理恵
東京大学史料編纂所研究紀要 28 1-13 2018年3月  

は卓抜だと思う。丹念に史料を博捜して、それぞれに秀逸な考察を加えている。
その結論は該当論文の末尾に整理されているので、再論は割愛する。
次は、市川先生の経済システム論を楽しみに伺いたい。というのも、周知のとおり経済活動はダイナミックで、しかもモノ・カネ・ヒト・情報などの移動を伴い、個人の卓越した経営能力と才覚と運が加味されるからである。
個人的には、浅学菲才の身ながら、私自身がこの点を押し広げられる可能性を提示したいが、もはやすべては「夢の中」である。
だからこそ、わずかに古代日本富豪列伝を執筆中である。


「東大寺大仏殿の彩色についての記録」ーー造石山寺所関係資料(岡藤先生論文を手掛かりに)

 岡藤良敬論文「造石山寺所、公文案帳の復原」『九州文化史研究所紀要』 27号、 pp.151-196, 1982-03-31は大変に興味深い。

岡藤先生の論文の考証は手堅く、どれ一つ手に取っても巧みな職人技であり、後進が刈り取るぺんぺん草さえ残っていないほどである。


などである。

「その中で、760年代に、近江国に造営された石山寺の造営史料が、大量に正倉院文書の中に現存していることは 注目に値する。 

この造営史料は、報告書である告朔解の類と、銭・食料・材料などの日々の出納記録を記した諸帳に大きくはわけ られるが、その内容は、造営の具体的な経過、労働力構成、材料・用具などの調達や使用状況、また銭や食料の調達 や給付内容(財政運用) にいたるまで知ることができる精細さをきわめたものである。 したがって、この石山寺という、中小規模寺院造営史料の徹底的な分析によって、その全体構造を史料の上で知る ことが困難な、少なくとも、奈良時代に成立した造営組織の性格を知る手掛りがあたえられる。

 しかもそれだけにとどまらず、石山寺造営史料の紙背には、石山寺の次によく残っている、法華寺阿禰陀浄土院金 堂の造営史料、また古代の絵画関係についての貴重な史料である東大寺大仏殿の彩色についての記録、および今日部 分的に残っている造東大寺司の報告書(告朔解案)や、東大寺東塔所関係の文書などが記されており、表・裏の文書 をあわせてこの文書群は、古代の建築・彫刻・絵画・工芸品などの、造営・製作の実態をとらえるための貴重な史料 なのである。」(161頁)

と記す。


いま、ここでは特に「東大寺大仏殿の彩色についての記録」を取り上げて、考察を進めたい。




2025年8月4日月曜日

「青丹よし」考

 北野信彦著「古代木造建造物におけるベンガラ塗装の研究(Ⅰ)--豊後国風土記に記された「赤湯泉(あ かゆ)の温泉沈殿物に関する基礎的調査-」『考古学と自然科学』54号、35-52頁、2006)を起点として、若干の私見をまとめた。


『豊後国風土記』速見郡条に

赤湯泉あかゆのいづみ。【在郡西北。】此湯泉之穴ゆのあな,在郡西北竈門山かまどやま。其めぐり十五ばかりつゑ湯色ゆのいろ赤而有ひぢ。用たる屋柱やのはしら。埿流出かはり清水すみみづ,指東下流。因曰赤湯泉」

<訳文:別府市史ーー「赤湯の泉 郡の西北のかたにあり。この湯の泉の穴は、郡の西北のかたの竈門山にあり、その周りは十五丈  ばかりなり。湯の色は赤くして埿あり。用ゐて屋の柱を塗るに足る。埿、流れて外に出づれば、變りて清水と 爲り、東を指して下り流る。因りて赤湯の泉といふ」>


とある。

 さて、この「赤湯泉」に関して、『豊後国風土記』の記述から見て、その赤泥は速見郡衙(8世紀代の遺物が多く出土する別府市北石垣の石垣八幡宮付近か)の外観塗装に使用したと推定される。もちろん赤湯泉に隣接する木造建築物、例えば郡寺などにも使用したに違いない。

 何も郡衙や国衙だけではなく、『続日本紀』神亀元年11月条に、平城京でも

 十一月、丁巳朔甲子、太政官奏言、上古淳朴、冬穴夏巢。後世聖人、代以宮室。亦有京師、帝王為居。萬國所朝,非是壯麗、何以表德、其板屋草舍、中古遺制、難營易破、空殫民財。請、仰有司、令五位已上及庶人堪營者、搆立瓦舍、塗為赤白、奏可之。」

とあるように、五位以上の全員と裕福な庶民には「板家草舎」ではなく、「瓦葺きの家屋」の建築許可を与えている。そしてその壁や柱に「赤」色塗装が命じられている。

 この記述と符合するように、古代の都や地方官衙の庁屋や寺院伽藍などの大型木造建築物の外観にベンガラが塗装されていたことは明らかである。北野信彦氏によると、そもそもベンガラとは「赤い色相を呈する酸 化第二鉄(CM-FeO3)を発色の主成分とした」顔料(「歴史的な木造建造物の ベンガラ塗装に関する研究(I)-文献史料に登場する「赤土」に関する基礎的調査一」1頁)だという。

 その目的は、「朱や丹という顔料は金属を原料としているので、虫害・腐食から建物自身を守る役割もあります。」であり、「創建当初には建築部材の表面保護の目的から、さらにはこれに権威の象徴や荘厳性を高める目的 が付加されて、何らかの外観塗装が施されていた。建造物部材に外観塗装された材料、結果とし て視覚的に表現される建造物外観の色調は、それぞれの建造物自体のイメージを大きく左右する。 そのため、各木造建造物が創建された当初、創建に直接携わった人々、とりわけ為政者側はその 色調に極めて注目したことが想定される。」(北野信彦、平安宮内建造物群のベンガラ塗装に関する一知見」で良いはずである。

その外観塗装の方法は、下記の通りである。

「丹塗りの工程は、最初に古い塗装をへら等の道具によって丁寧に削り、汚れや埃を拭き取る掻き落し作業を行います。次に礬砂(どうさ)と呼ばれる、膠水に明礬(みょうばん)を溶かした液を塗布します。さらに、砥之粉(とのこ)・おがくず・漆で練った刻苧(こくそ)を傷んだ部分や虫食いの穴に充填して埋め、均一な木地を再生します。そして最後に鉛丹(えんたん)の粉を膠水で溶いた丹で塗り上げます。

伝統的な丹塗りは、現代の塗装に比べ何倍もの手間暇がかかりますが、本来あるべき姿に修復するためには必要なことです。鮮やかな丹・朱色、そして丹塗りという伝統技術を次の世代へと伝え残していかなければなりません。」(丹塗|一般社団法人 社寺建造物美術保存技術協会



ところで、肝心なベンガル塗装の原料はどこで入手したのだろうか。


ちなみに「本草綱目啓蒙)」に は、

「アカツチ 山ヨリ イヅル色赤キ土 一名 緒垂 今世俗二赤土 ト言ハ黄土ナリ。黄 土 ヲヤキタルヲ丹土と云,壁 二用ユ」

とある。


<参考資料>

  • 」[ 膠 ]動物の皮から抽出した接着剤
  • [明 礬]硫酸塩とアルミニウム・クロム・鉄などが化合したもの
  • [砥之粉]風化した岩石を粉末に加工したもの
  • [鉛 丹]金属鉛を加熱し酸化させて作る赤色の顔料




2025年8月2日土曜日

河内国の半島系渡来人・百済人---法興寺創建時の(つまり百済からやって来た瓦博士たちが造った瓦)が、なんと約170枚も

 河内国に在住した半島系渡来人の中でも百済人集住地は、次の地名から推定できる。


①『日本書紀』:「石川百済村」(「石川大伴村」付近であるので、富田林市北大伴・南大伴付近)、「下百済河田村」(富田林市北甲田・南甲田・宮甲田付近)

『倭名類聚抄』:「河内国錦部郡百済郷」(現在の富田林市大字錦織付近か)


こうした場所に、『日本書紀』崇峻天皇元年(588)条に、

元年春三月、立大伴糠手連女小手子、爲妃、是生蜂子皇子與錦代皇女。是歲、百濟國遣使幷僧惠總・令斤・惠寔等、獻佛舍利。百濟國遣恩率首信・德率蓋文・那率福富味身等、進調、幷獻佛舍利・僧聆照律師・令威・惠衆・惠宿・道嚴・令開等・寺工太良未太・文賈古子・鑪盤博士將德白昧淳・瓦博士麻奈文奴・陽貴文・㥄貴文・昔麻帝彌・畫工白加。」


とあるように、百済から

1,仏舎利を携えた恵総ら六人の僧

2,寺工・太良未太、文賈古子

3,鑪盤博士將德・白昧淳

4,瓦博士・麻奈文奴、陽貴文、㥄貴文、昔麻帝弥

5,画工・白加

が河内国百済郷に来住したにちがいない。


<参考資料①>『日本書紀』薇辰天皇12年条

十二年秋七月丁酉朔、詔曰「屬我先考天皇之世、新羅滅內官家之國。天國排開廣庭天皇廿三年、任那爲新羅所滅、故云新羅滅我內官家也。先考天皇謀復任那、不果而崩、不成其志。是以、朕當奉助神謀復興任那。今在百濟、火葦北國造阿利斯登子達率日羅、賢而有勇。故、朕欲與其人相計。」乃遣紀國造押勝與吉備海部直羽嶋、喚於百濟。冬十月、紀國造押勝等還自百濟、復命於朝曰「百濟國主、奉惜日羅、不肯聽上。」

是歲、復遣吉備海部直羽嶋、召日羅於百濟。羽嶋既之百濟、欲先私見日羅、獨自向家門底。俄而有家裏來韓婦、用韓語言「以汝之根、入我根內。」卽入家去。羽嶋便覺其意、隨後而入。於是、日羅迎來、把手使坐於座、密告之曰「僕竊聞之、百濟國主奉疑、天朝奉遣臣後留而弗還。所以、奉惜、不肯奉進。宜宣勅時、現嚴猛色、催急召焉。」羽嶋、乃依其計而召日羅。

於是、百濟國主、怖畏天朝不敢違勅、奉遣以日羅・恩率・德爾・余怒・奇奴知・參官・柁師德率次干德・水手等若干人。日羅等、行到吉備兒嶋屯倉。朝庭遣大伴糠手子連而慰勞焉、復遣大夫等於難波館使訪日羅。是時、日羅被甲乘馬到門底下、乃進廳前、進退跪拜、歎恨而曰「於檜隈宮御㝢天皇之世、我君大伴金村大連、奉爲國家使於海表。火葦北國造刑部靫部阿利斯登之子・臣達率日羅、聞天皇召、恐畏來朝。」乃解其甲、奉於天皇。乃營館於阿斗桑市、使住日羅、供給隨欲。

復遣阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連而問國政於日羅、日羅對言「天皇所以治天下政、要須護養黎民、何遽興兵翻將失滅。故、今合議者、仕奉朝列臣連二造二造者國造伴造也下及百姓、悉皆饒富令無所乏。如此三年、足食足兵、以悅使民、不憚水火同恤國難。然後、多造船舶、毎津列置、使觀客人令生恐懼。爾乃、以能使、使於百濟召其國王。若不來者、召其太佐平・王子等來。卽自然心生欽伏。後、應問罪。」

又奏言「百濟人謀言、有船三百、欲請筑紫。若其實請、宜陽賜予。然則百濟、欲新造國必先以女人・小子載船而至。國家望於此時、壹伎・對馬多置伏兵、候至而殺。莫翻被詐、毎於要害之所堅築壘塞矣。」

於是、恩率・參官臨罷國時舊本、以恩率爲一人以參官爲一人也竊語德爾等、言「計吾過筑紫許、汝等偸殺日羅者、吾具白王當賜高爵身及妻子垂榮於後。」德爾・余奴、皆聽許焉。參官等遂發途於血鹿。於是、日羅、自桑市村遷難波館。德爾等、晝夜相計將欲殺。時、日羅、身光有如火焰、由是德爾等恐而不殺。遂於十二月晦、候失光、殺。日羅、更蘇生曰「此是、我駈使奴等所爲、非新羅也。」言畢而死。屬是時、有新羅使。故、云爾也。

天皇、詔贄子大連・糠手子連令收葬於小郡西畔丘前、以其妻子・水手等居于石川。於是、大伴糠手子連議曰「聚居一處、恐生其變。」乃以妻子居于石川百濟村、水手等居于石川大伴村。收縛德爾等、置於下百濟阿田村。遣數大夫推問其事、德爾等伏罪言「信是、恩率・參官教使爲也。僕等、爲人之下不敢違矣。」

由是、下獄、復命於朝庭。乃遣使於葦北、悉召日羅眷屬、賜德爾等任情決罪。是時、葦北君等、受而皆殺、投彌賣嶋。彌賣嶋、蓋姬嶋也。以日羅、移葬於葦北。於後、海畔者言「恩率之船、被風沒海。參官之船、漂泊津嶋、乃始得歸。」


<資料②>『倭名類聚抄』

摂津国百済郡東部
摂津国百済郡南部
摂津国百済郡西郡


<資料③>古市晃「摂津国百済郡の郡域と成立年代」『大阪の歴史』第56号、大阪市史料調査会、2000年3月

<資料④>
鎌倉時代(元興寺極楽坊造営事という棟札より寛元2年(1244)と推定)に創建された元興寺極楽坊は、

現存する元興寺極 楽坊は,飛鳥寺搬入瓦や奈良時代創建瓦,さらには飛鳥寺創建期部材(巻斗の一部)の存在に も象徴されるように,奈良時代の南都七大寺である主要寺院の僧房建造物の構造を良く留めな がらも,大修造を受けた中世期を代表する寺院建造物の一つとして広く知られている。」(北野 信彦・狭川 真一 ・窪寺 茂著「元興寺五重小塔の外観塗装材料に関する調査」『保存科学 』No.47、53頁、2008年)

であったという。そして、
「(1)奈良時代の当初材はいずれもヒノキ材(写真22)であるが,この部材直上には赤い色 相が強い中空円筒状の特異な形態を有する「パイプ状ベンガラ」が極めて密集した集合状態で確 認された。このパイプ状ベンガラはそれ以降の鎌倉・江戸・明治時代以降の取替えの後補部材 の外観塗装材料には観察されなかった。そのため,この「パイプ状ベンガラ」は奈良時代に作成 された元興寺五重小塔の当初の外観塗装材料である可能性が指摘される。」(上掲論文、66頁)


今、浅学菲才であるので、飛鳥寺搬入瓦や奈良時代創建瓦の残存枚数を知らないが、

三州瓦の愛知県陶器瓦工業組合公式サイトによると、次のようにある。
 「それは西暦588年以降のことと考えられています。『日本書紀』の崇峻元年(588)のところに、「百済国が仏舎利や僧などとともに、寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん/仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名をおくってきた」という意味の記述があり、彼ら(およびその指導を受けた日本の職人)の手により、法興寺(飛鳥寺)が造営されたこと(完成は596年)が、考古学的な研究からも明らかになっているからです。
  さてここで、驚きの事実があります。法興寺は飛鳥から平城京に都が移った際(710年)に、現在の奈良市に移転され、名も元興寺と改められました。このとき建造物の一部や瓦もこちらに移されています。昭和30年代にこの元興寺の極楽坊本堂と禅室の解体修理が行われましたが、このとき確認された事実が驚くべきものだったのです。屋根から降ろされた4413枚の瓦のうち、法興寺から運ばれたものが約600枚、 そのうち法興寺創建時の(つまり百済からやって来た瓦博士たちが造った瓦)が、なんと約170枚も使われていたのです
  1400年にもわたって現役であり続けた瓦! 当時の瓦製造技術がいかに優れたものであったかが分かるというものです。」


越前国丹生郡大屋郷と若狭国遠敷郡丹生郷の二人の秦人

 『優婆塞貢進文』を見ると、寺院や官庁に対して物品や度人を寄進した人に、越前と若狭に二人の秦人がいたとある。

越前国丹生郡大屋郷戸主秦人部国益口  秦人部床足(31歳)

若狭国遠敷郡丹生郷戸主可久麻戸口  秦人広山(24歳)


この記録で注目したいのは、列挙される優婆塞(在家の仏教信者、男性)の中に、明白に出家を目的としないで、仏教僧となることで官僚と同等の権利、課役の免除を目的とする一群の俗人が存在することである。

彼らは富を蓄積した人間であろうし、当該地の国司などに相当の金品を献上して優婆塞貢進文』に名を連ねたに違いない、その二人が秦人部床足(31歳)であり、秦人広山(24歳)であったらしい。

いずれとも半島系渡来人であった。


蛇足ながら、『智識優婆塞等貢進文』には、


「葛井連廣往年十八(貫右京九条三房戸頭葛井連恵文之男)

読経

 法華経1部 最勝王経1部

 方廣経1部 涅槃経1部

 僧伽叱経(『僧伽吒経』)1部  弥勒経3巻

  仏頂経1巻 阿弥陀経1巻

誦経

 理趣経1巻 薬師経1巻

 不空羂索陀羅尼 仏頂陀羅尼

誦論

 因明論1巻 百法論并唯識

 唯識論2巻 解文 唱礼具足

    天平6年7月27日」

などのように、本来であれば、読経・誦経・浄行などの信仰を記述するのが常である。

上記に挙げた越前の事例にはない。




参考文献

 久留宮 圓 秀著「僧伽ロモ経におけるDharmabhanaka」


高句麗系渡来人王広嶋が鋳銭司の鋳物師である意味は?

 『『大日本古文書』第5巻266頁には、

*岡田鋳銭司の鋳物師として王広嶋

の名がみえる。この王氏は高句麗系渡来人である。高句麗系氏族の拠点である相楽郡大狛郷に住居を置いていただろう。

『日本書紀』欽明天皇26年条に

*「廿六年夏五月、高麗人頭霧唎耶陛等、投化於筑紫。置山背國、今畝原・奈羅・山村高麗人之先祖也。」

とある。


あるいは、『日本三大実録』巻5,貞観3年(861)8月19日庚辰条に、

「○十九日庚申。左京人散位外從五位下伴大田宿禰常雄賜伴宿禰姓。先是。正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿禰善男等奏言。常雄款稱。謹稽家諜。伴大田宿禰同祖。金村大連公第三男狹手彦之後也。狹手彦。宣化天皇世。奉使任那。征新羅。復任那。兼助百濟。欽明天皇世。百濟以高麗之冦。遣使乞救。狹手彦復爲大將軍。伐高麗。其王踰城而遁。乘勝入宮。盡得珠寳貨賂。以獻之。礒城嶋天皇世。還來獻高麗之囚。今山城國狛人是也。狹手彦再使海外。征伐兩國。盡力絶域。復立二國。身尊當時。功流後代。但古人朴質。除兩國盡力非私。皆賜別姓。是以子孫不得大部。別賜大田宿禰。而狹手彦之弟阿彼布古。承父爲大部連公。自斯而後。恐子孫之不廣。無復更賜別姓。今阿彼布古之後。歴代尊顯。而狹手彦之後。擧朱〓者。曠世無聞。一祖之枝。榮枯殊隔。沈淪之歎。告訴無止。常雄幸逢昌泰。新參花轂。門蔭中興。寔爲榮慶。刊大田兩字。同歸於一宗。然則外不辱功臣之序。内方敦孔懷之親。善男等伏検家記。所陳不虚。請刊彼兩字。直賜宿禰。控其〓入此本源。從之。」


とあることによっても、推定できる。

彼の妻は多治比須豆刀自であった。

ちなみに、「新撰姓氏録」には,山城諸蕃狛造の出自は「高麗国主夫連王之後也」であり、『智識優婆塞等貢進文』には「相楽郡戸主狛人麻嶋」の名を知る(正倉院文書)。