2025年8月31日日曜日

鎌倉の半島系渡来人・上村主氏ーー河内国大県郡住人は朝鮮半島系渡来人か?

 『日本三代実録』の貞観七年(865)三月廿一日壬寅条には、以下の記述がある。 

 「相摸國鎌倉郡人大皇大后宮少屬從八位上上村主眞野。武散位從八位上上村主秋貞等。 改本居貫附河内國大縣郡。」

この記事で注目したいのは、かれら上村主氏の本貫を

本居貫附河内國大縣郡

と定めたことである。

なぜか。

まず許されるのは、

相摸國鎌倉郡へ移動する前の居住地本貫が河内国大県郡

であった想定である。むろん河内国から相模国へ直行したという仮定するばかりではなく、その途中に「寄り道」もあったかもしれない。また同一人物が2地点を移動したのではなく、2人の先祖であったかもしれない。いずれにせよ彼ら上村主家には、本源地を河内国大県郡であるという伝承もしくは信仰が存在していたと考えてよいだろう。百歩譲れば、鎌倉ではなく河内国大県郡が本源地だと他人より認定されることで、上村主家は名誉とか権威付け・称賛などの利益が期待できたかもしれない。さらに、かれら二人は鎌倉の住人ではなく、すでに京人であったとも推定できる。

 我々の考察を展開する前に上村主真野・秋貞らの本籍地・河内国大県郡内には、「古墳時代の近畿地方で最大の鍛冶集落」 〔千賀2020〕と評される大県遺跡が所在することを念頭に置きたい。5世紀代に操業を開始、6世紀後半に盛期を迎える考古学的出土品があるそうだ。6-1.発掘調査された古墳 | 大阪府柏原市


 さて、我々の調査の旅は、以下の二つの論文に全面的に依拠している。

① 丸山竜平「古代の鉄の生産・流通 操業開始年代の検討 」『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書』XXVI,20l5.03

② 押木 弘己「相摸國鎌倉郡人」上村主 氏をめぐって ─古代渡来系氏族の軌跡を探る」

である。

丸山氏が考古学者であるかどうかは未知。だから丸山論文が古代史学関係雑誌ではなく、加速器質量分析計関係の研究紀要に掲載されていることが不思議なのかは見当つかない。しかしながら私が生涯手にするはずもない雑誌であった。偶然にインターネット検索にHitしたので、一読。その研究視野の広さと情報量の豊かさ、着想の卓越さに、眼を奪われた。

古代史の専門家からすれば、私が基本的素養が欠けているから、そうした記述に驚くだけだと揶揄されそうだ。確かにそうだが、研究能力と時間と良質な研究者へのアクセスなどに限定がある以上、与えられた範囲内での思索の旅は許されるだろう。

 一切の反論をするつもりではないが、何にも増して、考古学関係論文の多くは発掘調査報告書の延長線上にあり、その性格上、遺跡や出土品の精細なデータ説明と遺跡の評価を余儀なくされている。したがって、研究の領域に至らないままに、考古学者は次の発掘現場に長靴と作業服のままで走り出すことを余儀なくされる。もう少し静寂な環境で着実に文献調査の時間とか、あるいは出土品をじっくりと観察する時間の確保とか、さらには他の遺跡情報の比較などに時間を割くことができないものかと考えると、行政考古学の限界が実にもどかしい。

それだけに、丸山論文には、珍しく、そして希少な「問題の設定」が次のように記述されている。

>>「。古代国家発展の諸段階に呼応してみせる鉄生産の諸段階を遺跡に則して 時間軸を定めることは歴史の展開をリアルに描くことであり、歴史の研究にとって急務でありかっ 緊要の課題である。

この明確な問題意識の下で論が展開されるので、その記述の当否は不明だとしても、実に興味深い。

まず丸山氏は自らの考察を展開するために、「鉄生産にかかわる概念 製鉄遺跡に関連しての用語」を整理し、守備範囲を定める。

「 1、製鉄・製錬・たたら吹き、製錬津・鉄津・金糞、錦・玉鋼、箱型炉・竪形炉、下部構造、 

  ノロ・流動津、炉底津、鉄鉱石、砂鉄、沼鉄、

 2、精錬・大鍛冶、碗型津、平炉、鋳鉄、ルツボ・取瓶、

 3、鍛冶・小鍛冶・鉄器生産・碗型淳、鍛造剥片、 

4、鉄穴、採掘穴、採集、カンナ流し、比重選鉱 

5、炭窯・登窯型式・横口型式、輸・輔の羽口、踏輸・送風装置、覆屋・掘立柱建物、

 6、鉄針・ 鉄床、金鎚、砥石、 

7、副葬・供献鉄津、

 8、工人、倭鍛冶、韓鍛冶、鉄師、選鉱夫、渡来人、村下」


そこで、丸山氏が注目したのは、

「上記諸工程が古代前期(~7 世紀)においては一貫して現地で行 われた形跡のない点にかんがみ、故意に工程を分離することで「鉄の支配」を図った玉権足下の工 房に着目した。」

である。

この丸山氏の指摘を踏まえて、我々の観点を加味するならば、次の通りである。

つまり鉄鉱石・砂鉄などの鉄原材料供給地と製鉄・精錬などの大鍛冶(錬鍛冶)技術、その技術を保有する大鍛冶専業集団の成立、大鍛冶技術伝播と渡来系技術工人、小鍛冶(錬鍛冶技術と鉄製品の販路・納入先、工房で使用された鉱滓(スラグ)の分類(砂鉄系製錬滓、鉄鉱石系製錬滓、砂鉄系精錬鍛冶滓、砂鉄系鍛錬鍛冶か。そして鉄 成分<全 鉄、酸 化第一鉄と酸 化 第二鉄>と 造成分<酸 化鉄以外の酸化物>や工房に残された木炭(そのC14年代測定結果)などの産業廃棄物が重要な分析視点だとして、我々に研究ツールを教える。

当面の関心を限定するために、大県遺跡に集中して考察を続けたい。丸山氏によると、

「大県遺跡のスラグの成分分析でも砂鉄由来のものはなくすべて鉄鉱石を原料とする。国内産鉄素材、そして朝鮮半島の鉄挺が小鍛冶での材料であろう。」

という。ちなみに丸山氏が指摘するに、

「朝鮮半島の製鉄原料は,磁鉄鉱であって砂鉄の使用は朝鮮時代以降である。」

であるという。

この点、日鉄テクノロジー社の

古代の日本で、製鉄に利用された鉄鉱石(塊鉱)は磁鉄鉱です。世界各地の伝統的な製鉄では、他にも褐鉄鉱や赤鉄鉱を原料とする地域があります。しかし現在までのところ、日本では、主な製鉄原料として磁鉄鉱以外の鉄鉱物が遺跡から確認された事例はありません。

製鉄関連遺物の調査<製鉄遺跡調査シリーズ> | 日鉄テクノロジー

という重要な指摘を重ね合わせると、すでに考古学界で通説であるように、

*「大県遺跡は朝鮮半島系渡来人によって営まれた5~6世紀代の工房跡である。彼らは朝鮮半島産製鉄原料・磁鉄鉱で作られた小型球状鉄塊(銑鉄)あるいは鉄塊(低炭素鋼)を日本列島に搬入するルートが確保できるとともに、大鍛冶・小鍛冶技術を朝鮮半島、特に加耶・百済・新羅3国から日本に持ち込み、河内国大県郡において国内最大級の鍛冶専門集団を形成した」

と理解できるようである。その結果、河内国大県郡住人が朝鮮半島に由来する渡来人系であると断定しても良いに違いない。

 次に、押木氏の論文を取り上げたい。この論文に関して氏自身が論旨を整理して。

「筆者は『日本三代実録』にみえる「相摸国鎌倉郡人上かみの 村主すぐり 」氏について検討 を行った〔押木2021〕。そこでは、百済系渡来氏族と目される上村主氏が貞観七年(865)以 前に鎌倉郡に戸籍を有していたこと、そして郡域に分布する諸種の考古資料から、彼らの鎌倉への移住目的が製鉄や寺院造営に資する新来技術の扶植にあったとする仮説」

を取り上げたという。「百済系渡来氏族」であったかどうかは留保するとしても、この押木氏の説明は魅力的であり、これ以外の解を見いだせない。


それでは、上村主氏が半島系渡来人であったと仮定しながら、次の考察に移りたい。



<参考①>鉄の分析法

  1. 成分組成を調査する方法:化学分析;ICP-AES、ICP-MS、GC-MS、蛍光X線、EPMA、EDS、IR等
  2. 化合物形態を調査する方法:X線回折(XRD)、XPS、ラマン分光等
  3. 局所的元素分布を調査する方法:EPMA、EDS、AES等
  4. 形態、構造、金属組織を調査する方法:X線CT、X線透視、SEM、三次元計測、光学顕微鏡等
  5. 含鉛試料の原料の産地を推定する方法:鉛同位体比分析

<参考②>

大澤正巳「大県遺跡とその周辺遺跡出土製鉄関連遺物の金属学的調査」『古代を考える』53号、古代を考える会、 p38-47、 1991年11月は、未見

  •  



古代寺院に葺かれた同一の瓦当箔の研究ーー谷川遼氏の研究紹介(軒平⽡の⽂様から、下野薬師寺軒平⽡202型式と平城6682E 型式・播磨溝口廃寺が同笵

 『扶桑略記』 持統6 年 (692) 条に、 日本全国に 545寺が建立されたとある。これだけの膨大な寺院建立にあたり、545種類の瓦当が製作されたとはとうてい考え難い。

 すでに 1974 年 に発表された岡本東三氏の古典的論文 「同箔軒平瓦について一下野薬師寺と 播磨溝口廃寺一」 (『考古学雑誌』60-1、83-92頁、1974年)は古代寺院造営技術者と同一の瓦当箔(型)に焦点を当てた画期的論文であった。 つまり下野薬師寺と播磨溝口廃寺姫路市北東部に位置する香寺町溝口に所在し、旧神前郡を代表する寺院)を代表する古代寺院跡から出土した軒平瓦が平城宮6682E型式と同一の箔型(鋳型=文様)であると解明し、中央政府のコントロールの下で寺院造営者の派遣を論じた。

その後、1994年 (平成6)、 山崎信二氏によって、下野薬師寺、 播磨の溝口廃寺に加えて、さらに同一の同箔軒瓦が興福寺でも出土すると報告された。山崎氏によれば、岡本説の訂正を必要として、3寺院 同一の同箔軒瓦は官司ではなく、 興福寺の関係者(例えば藤原氏)が想定できるとした。

ところで、 平城宮跡発掘調査部著「平城宮・京と同箔・異箔の軒瓦 」(科研費「

によると、

 A同箔瓦 

①近江膳所廃寺の南5~6 0 0 mの地出土6 2 3 5 B--平城宮6 2 3 5 Bと同植一一一保良宮の瓦だろう 

②河内国分寺及び河内百済寺6 6 6 3 H-平城薬師寺6 6 6 3 Hと同施一国分寺例が古い

 ③丹波国分寺6 2 3 6 , . 6 7 2 5 A 一唐招提寺金堂6 2 3 6 , . 6 7 2 5 Aと同施一箔・工人の移動 

④伊予国分寺6 3 0 4 ,- 大安寺6 3 0 4 , と同箔一近世・近代に瓦が運ばれたものか 

⑤下野薬師寺6 6 8 2 E 一興福寺6 6 8 2 E 一播磨本町遺跡6 6 8 2 E-播磨溝口廃寺6 6 8 2 E 

⑥下野薬師寺6 3 0 7 新種一一興福寺6 3 0 7 新種一播磨溝口廃寺6 3 0 7 新種--⑤・⑥は組み合う 

⑦壱岐嶋分寺6 2 8 4 A-平城宮6 2 8 4 Aと同施一施型の移動 ③豊前椿市廃寺6 2 8 4 F-平城宮6 2 8 4 Fと同施一施型の移動 ⑨伊勢御麻生蘭廃寺6 2 3 5 B-平城宮6 2 3 5 B と同施一一保良宮廃止後箔型が伊勢へ 

⑩伊勢長者屋敷6 7 1 9 A 一平城宮6 7 1 9 Aと同値一箔型の移動

 ⑪河内新堂廃寺6 6 6 7 A-法華寺下鳩6 6 6 7 Aと同箔-1孫犬養橘宿禰三千代の本貫地

 ⑫河内新堂廃寺6 6 7 1 A 一興福寺6 6 7 1 Aと同施 


B異箔瓦(拓本・写其の比較では同箔・異施が判断できず,現物相互の比較で異施と判明)

 ①信濃国分寺軒丸瓦一一東大寺6 2 3 5 Aに酷似一工人の移動 ②伊賀三田廃寺軒丸瓦一東大寺6 2 3 5 Aに酷似一一工人の移動 

③備前幡多廃寺軒丸瓦一平城宮に6 2 2 5 C 酷似 


C異箔瓦(型式番号だけでなく種まで,その類似した瓦が明確に確定できる。原型に類似) 

①信濃国分寺軒平瓦一平城京6 7 3 4 A に類似

 ②伊賀三田廃寺軒平瓦一東大寺6 7 3 2 E に類似

 ③美作国府・国分寺・国分尼寺軒丸瓦・軒平瓦一平城宮6 2 2 5 C・6 6 6 3 C に類似

 ④駿河片1 1 1 廃寺軒平瓦一平城宮6 6 6 3 C に類似 

⑤備後岡遺跡他軒丸瓦一瀬後谷瓦窯6 3 1 6 新種に類似」

AN00181387_1993_38.pdf

とまで解明されている。この山崎氏の調査結果はその後の研究でさらに増加しているに違いないが。山崎氏自身の整理によると、以下のように取りまとめられる。科研費(一般研究C「都城・国分・国府・三関・その他の寺院における八世紀同笵軒瓦の系統的研究」(1993 – 1994、研究課題 05610339)


キーワード同笵 / 同型式 / 桶巻作り / 軒平瓦の製作方法 / 瓦工人の移動 / 笵型の移動 / 瓦自体の移動 / 瓦生産組織 / 軒瓦の同笵関係 / 文様の類似度順 / 都城の瓦の生産地 / 板作りと紐作り軒平瓦 / 笵型移動、瓦自体の移動 / 技法上の類似性 / 国分寺瓦の文様構成上の分類 / 丸瓦の変遷とその地域差 / 技法的な類似性 / 笵型移動・瓦自体の移動 / 造宮卿藤原武智麻呂 / 畿内系の瓦工人の招来 / 国家地方財政による造営 / 片切り彫りによる軒平瓦 / 造東大寺司に属する瓦工人
研究概要

まず、平城宮・京と遠隔地とで同笵関係にある軒瓦の調査をおこない、(1)近江膳所廃寺南(保良宮推定地)と平城宮6235B・6691B、6763A、(2)河内国分寺と平城薬師寺6663H、(3)丹波国分寺と唐招堤寺6236D-6725A、(4)伊予国分寺と大安寺6304D、(5)(6)下野薬師寺・播磨溝口廃寺と大和興福寺6307J-6682E、(7)壱岐嶋分寺と平城宮6284A、(8)豊前椿市廃寺と平城宮6284F、(9)伊勢御麻薗廃寺と平城宮6235B、(10)伊勢広瀬長者屋敷と平城宮6719A、(11)河内新堂廃寺と興福寺・法華寺下層6667A・6671Aの同笵を確認した。以上のような同笵関係の生じる理由は大きく三つの場合に分けられる。第1に、瓦工人の移動で、笵型を持って移動したもの(実例(3)(5)(6)など)。第2に、笵型のみの移動(実例(7)(8)(9)(10)など)。第3に、瓦自体が移動したもの(藤原宮の瓦について後述)。また同笵関係が生じる理由について個々で分析を加えた。
次に平城宮式軒瓦を分類し、A型(同笵)、B型(以下異笵:現物照合によってはじめて異笵と判明するほど酷似する)、C型(型式番号だけでなく種まで確定できる)、D型(種の類似点まで確定できない)、E型(どの瓦をイメージしたかが推定できる)、F型(軒丸瓦か軒平瓦の一方が、全く異なる文様構成をもつ)に分けた。B型が信濃、C型が美作、E型が上総、F型が駿河(それぞれ国分寺出土例)である。
また、藤原宮瓦と同笵関係にある近江・和泉・讃岐・淡路の瓦の再整理を行ない、それぞれの生産地から藤原宮へ瓦を運んでいることを明らかにした。また、讃岐東部の資料(願興寺出土)と山城の資料(大宅廃寺)が藤原宮瓦と同笵であることを新たに発見した。また、藤原宮式・老司式軒平瓦の出現と共に、大和・筑前・肥後・尾張の地において、従来の板作り軒平瓦から紐作り軒平瓦に突然一斉に変化することを明らかにした。」

このように、軒⽡の⽂様系譜及び同笵関係ら分布研究が盛⾏し、それと共に編年作業が活発化した。さらにその研究成果の上に、造⽡⼯⼈集団の系統関係を推測するに至った。

 こうした一連の研究が展開される中で、谷川遼氏の研究は注目される(⾕川 遼(奈良県⽴橿原考古学研究所「造⽡器具からみる造⽡⼯⼈集団・⼯⼈単位 」「⽡研究の⾰新は東国古代史理解に何をもたらすのか−技法・様式・⼯⼈集団−」 予稿集 2025年3⽉28⽇ 編集・刊⾏:⽇本学術振興会科学研究費基盤研究(B)24K00142 「考古学ビッグデータの統合と3D-GISによる古代寺院』、8-11頁、)。冒頭で言及したように、

軒平⽡の⽂様から、下野薬師寺軒平⽡202型式と平城6682E 型式・播磨溝口廃寺が同笵である

ことは妥当な結論であるが、研究の深化によって、

*下野薬師寺へ⽡を供給した⽡窯が乙女不動原瓦窯 であると判明

したことに伴い、さらに一歩進めて、谷川氏によると乙女不動原瓦窯では

 「平⽡は「⼩型桶」(図2)と「⼤型桶1」(図3)を使⽤して製作される。叩き板は2種で 出⼟平⽡の9割以上を占める。2⼤別4細分できる。2系統の⼯⼈集団、各系統に2つの⼯ ⼈単位、⽡窯全体で4つの⼯⼈単位が存在する(⾕川2019)。」

(⾕川 遼2019「東国古代寺院における⽡⽣産―下野国造薬師寺司の⽡⼯集団―」『 史 観 』 180、早稲⽥⼤学史 学会、2019)

と推定する。


今回は、ここまでで擱筆したい。



<参考>

『日本書紀』崇峻元年 (588) に蘇我氏の飛鳥寺に始まった。この造営では、

 崇峻元年 (588) に蘇我氏の飛鳥寺に始まった。この造営では、 百済から僧侶、 建築工、 鑪盤工、 造瓦工、 画工らを招来して行われた。百済から僧侶、 建築工、 鑪盤工、 造瓦工、 画工らを招来して行われた。


2025年8月26日火曜日

河内国の国司リスト

 

奈良・平安初期の河内国司一覧表
職階人名年月官位出典
大石王大宝3.7従五位上続紀
多治比真人水守慶雲4.5正五位下続紀
石川朝臣石足和銅1.3正五位下続紀
賀茂朝臣吉備麻呂養老1.4正五位下続紀
大伴宿禰祜志備天平14.4(見)従五位上続紀
百済王敬福天平勝宝2(見)従三位続紀
紀朝臣飯麻呂天平宝字2正四位下補任
仲真人石伴4.1従四位下続紀
阿倍朝臣毛人7.1正五位下続紀
石上朝臣息継天平神護1.閏10(見)正五位下続紀
藤原朝臣雄田麻呂神護景雲3.10従四位下続紀
紀朝臣広庭宝亀1.8従五位上続紀
紀朝臣広純5.3従五位上続紀
佐伯宿禰国益6.9正五位下続紀
佐伯宿禰真守10.9正五位下続紀
阿倍朝臣祖足天応1.2従五位下続紀
巨勢朝臣苗麻呂延暦4.1正五位上続紀
大伴宿禰蓑麻呂7.2従五位下続紀
大伴宿禰弟麻呂9.3正五位下続紀
懸大養宿禰古万呂天平勝宝8.5従五位上裂名
当麻真人広名天平宝字3.5従五位上続紀
山田連銀7.4外従五位下続紀
石川朝臣望足天平神護1.閏10(見)正六位上続紀
紀朝臣広庭神護景雲2.10従五位下続紀
阿倍朝臣常島宝亀2.閏3従五位下続紀
権介河内連三立麻呂5.9外従五位下続紀
大伴宿禰蓑麻呂延暦4.1従五位下続紀
百済王善貞7.2従五位下続紀
大掾石川名人天平10(見)大日本古文書24の74頁
少掾小治田小虫10(見)大日本古文書24の74頁
少掾石上奥継天平宝字4.1(見)従六位上続紀
少目会竜万呂天平10(見)大日本古文書24の74頁
大目吉田兄人20.10(見)大日本古文書24の74頁

秦氏と石山寺

 石山寺との接点

石山寺を建立する時に、半島系渡来人である秦氏の関与がなかったと想像することは難しい。

まずは、天平宝字5年(761)末より翌年にかけた石山寺造営に関する福山敏男先生論文「奈良時代に於ける石山寺の造営」から始めるのは常套手段である。


関連論文

岡藤良敬「八世紀中葉寺院造営労働力の一考察 : 造石山寺所甲賀山作所」『史淵』102号、99-128頁、1970年


以下の3点に注目するからである

基壇造成をともなう礎石建ちの基礎構造に加え大量の屋根瓦構造:地盤技術と石瓦技術の融合は当時の最先端技術。それは半島系渡来人が保有するテクノロジー。

仏像の厚肉彫・装飾技法:新羅系石工の様式との共通性の認識

供養塔の銘文や構造:秦氏系職人の関与を推測させる可能性

2025年8月23日土曜日

醴泉ー日本の薬水醴泉に関して

 

資料①持統紀7年11月丙戌朔庚寅、

「幸吉野宮。

壬辰、賜耽羅王子・佐平等、各有差。

乙未、車駕還宮。

己亥、遣沙門法員・善往・眞義等、試飲服近江國益須郡醴泉

戊申、以直大肆授直廣肆引田朝臣少麻呂、仍賜食封五十戸」


資料②持統紀8年甲申朔

「日有蝕之。

乙酉、以直廣肆大宅朝臣麻呂・勤大貳臺忌寸八嶋・黃書連本實等、拜鑄錢司。甲午、詔曰「凡以無位人任郡司者、以進廣貳授大領、以進大參授小領。」

己亥、詔曰「粤以七年歲次癸巳、醴泉涌於近江國益須郡都賀山。諸疾病人停宿益須寺而療差者衆。故入水田四町・布六十端、原除益須郡今年調役雜徭、國司頭至目進位一階。賜其初驗醴泉者、葛野羽衝・百濟土羅々女、人絁二匹・布十端・鍬十口。

乙巳、奉幣於諸社。丙午、賜神祇官頭至祝部等一百六十四人絁布、各有差」


この二つの資料を照合すると、近江国益須郡都賀山に醴泉が発見された。その醴泉で、益須寺に停宿する多数の病人「 諸疾病人」が治療された。醴泉を発見した 葛野羽衝と百済土羅羅女に、「絁二匹・布十端・鍬十口」を与えている。

 さて、ここで注目するのは、百済人(「百濟土羅々女)

醴泉を発見したことである。「醴」とは文字通り口でかんで作る酒であるが、この場合、都賀山から湧き出る鉱泉を指すと理解してよいだろう。

その泉の水でもろもろの疾病が治癒され、その泉は百済人によって発見されたというエピソードを語る。

ちなみに朝鮮半島には、

*大韓民国慶尚北道醴泉예천군

が存在するが、郡の成立は757年。

むしろ貞観6年(632年)に唐太宗が陝西省に位置する「九成宮」に湧き出た醴泉(甘泉)を記念して建立された「九成宮醴泉銘」に由来するか、存疑。


<参考論文:大崎康文「醴泉近江国益須郡都賀山に湧く」 『史想紫郊史学会、2008年、未見))





2025年8月22日金曜日

雄勝城に納付された須恵器は、横手市雄物川町末館地区古窯跡群の製作品か?

 

雄勝城は今なお擬定地さえも不明である。

雄勝と言えば、

資料①『続日本紀』天平五年(733)十二月己未条「出羽柵遷 置於秋田村高清水岡 。又於雄勝村 建  郡居民焉」

資料②「『続日本紀』天平宝字三年(759)九 月己丑条、「始置 出羽国雄勝・平鹿郡」

とあり、その建郡の前後が入り組んでいる。


ただし横手市雄物川町末館地 区の古窯跡群( 秋田県横手市雄物川町大沢薮沢目)は須恵器を雄勝城などの城柵官衙へ供給しただろう。


蝦夷塚とは、単なる言い伝えか?

 「噂を信じてはいけないよ」という歌がある。

東北地方各地に、在地で「蝦夷塚」と言伝えられている古墳がある。

例えば

+江釣子古墳群

である。この古墳群に関しては

田中 航也 著「蝦夷と古墳群 ~江釣子古墳群の世界を復元する」( 弘前大学大学院 教育学研究科 教科教育専攻 社会科教育専修 歴史学分野 12GP206 )第2章 江釣子古墳群の景観

で詳述されている。

この田中論文でも言及されているように、江釣子古墳群は俗に「蝦夷塚」だという。

伝承されてきた「蝦夷塚」には、この外にも、

*田尻町下長根古墳や小笠原古墳群・柳沢古墳群・万宝院古墳群

などの7世紀から8世紀にかけての古墳があり、その地では同様に「蝦夷塚」だと信じられてきた。

また、登米市(旧中田町)には、

蝦夷塚古墳群(宮城県登米市中田町上沼字追分)及び蝦夷塚東古墳群

などもある。

秋田県では、秋田県平鹿郡雄物川町(現在は横手市雄物川町)の

*蝦夷塚古墳群(秋田県平鹿郡雄物川町造山字蝦夷塚51番地調査: 昭和60年 9月2B ~10月 15日、)

所在する蝦夷塚古墳群の発掘調査報告書を知る。


*上田蝦夷森古墳(岩手県盛岡市上田蝦夷森、6世紀末~7世紀前葉)

*蝦夷森古墳群〈奥州市、礫槨型古墳)

蝦夷塚えぞづか古墳群(宮城県本吉町大谷三島、『気仙沼市震災復興関連遺跡発掘調査報告書』2021年3月、19-21頁


これ以外に日本列島各地に多数の「蝦夷塚」が存在すると推定するが、東北地方に地理感を持たないので、皆様の教えを乞いたい。


当然ながら、「蝦夷塚」の特長に関して、以下に説明していきたい。なにが和人と異なるのかを。










江釣子古墳群(えづりここふんぐん)は、岩手県北上市に広がる古墳時代後期(7世紀後半〜8世紀前半)の群集墳で、約120基もの円墳が確認されています。画像も表示されているので、ぜひご覧ください。

🏺 主な特徴

立地:北上川に注ぐ和賀川の北岸、標高70〜90mの段丘や自然堤防上に分布

構成:猫谷地・五条丸・八幡・長沼の4支群から成る

墳形:直径10m前後、高さ1mほどの円墳が中心。周囲には幅約1mの周濠が巡るものも

埋葬施設:竪穴式石室が主流で、横穴式石室を模した構造。川原石を小口積みにした長方形の石室が多い

  構成:猫谷地・五条丸・八幡・長沼の4支群から成る

墳形:直径10m前後、高さ1mほどの円墳が中心。周囲には幅約1mの周濠が巡るものも

埋葬施設:竪穴式石室が主流で、横穴式石室を模した構造。川原石を小口積みにした長方形の石室が多い

出土品:

蕨手刀、直刀、刀子、鉄鏃

勾玉、管玉、切子玉、ガラス玉(金箔入りのものも)

馬具、金環、錫釧、鉄斧、鎌、鍬先、土師器など



筑紫の観世音寺、陸奥の観世音寺

 周知のように、大宰府には観世音寺が存在する。往古に比較すれば、その寺域にせよ建物にせよ、さらには仏像などの仏教関連品にせよ、当然ながら寺にて勤行する僧侶の数にせよ。それは比較にならないほど少ない。

ところで、宮城県多賀城市の多賀城廃寺発掘調査の結果、飛鳥寺式伽藍配置、四天王寺式伽藍配置、薬師寺式伽藍配置、川原寺式伽藍配置、法隆寺式伽藍配置、法起寺式伽藍配置などではなく、観世音寺式伽藍配置であると判明した。


「多賀城廃寺跡

 仏教の力で東北地方の安定を図るため建てられた多賀城跡の付属寺院で、多賀城跡と同時に創建されました。
 講堂を正面とし、東側に三重の塔、西側に金堂を配置し、築地塀で囲んでいます。このような配置は、多賀城跡の前身である仙台市郡山遺跡の付属寺院である郡山廃寺や大宰府の付属寺院である観世音寺と似ています。さらに、北外側には僧坊や子房、経楼や倉庫がありました。
 2㎞ほど西側で、万灯会(まんとうえ)で使われた多量の土器とともに「観音寺」と墨書された土器が発掘され、多賀城廃寺は当時「かんのんじ」または「かんぜおんじ」という名前であったと考えられています」(宮城県多賀城跡調査研究所、多賀城廃寺跡 | 宮城県多賀城跡調査研究所

(参考資料」森郁夫「わが国古代寺院の伽藍」など)

私の関心は、東西2寺の同一な伽藍配置を企画し、その建立を進めた立役者にある。

研究の緒に就いたばかりであるので、今なお陸奥国観世音寺(仮称)情報は多くないが、それでも並行して研究の必要性を感じる。

<参考資料>

井上信正「大宰府条坊の基礎的考察」『年報大宰府学』第5号、75-90頁

九州歴史資料館『観世音寺』(伽藍編 寺域編 遺物編1 遺物編2 考察編)、吉川弘文館、2007年10月、204頁










2025年8月20日水曜日

貽貝と富也は?ーー俗にいう「ムール貝とホヤ」

平城京左京三条二坊八坪から発見された木簡に、 

*「若狭国遠敷郡青郷御贄貽貝富也并作\○一塥」

がある。

『木簡庫』の説明に、

贄の荷札。青郷は『和名抄』の大飯郡阿遠郷に当る。はじめ遠敷郡所属で、天長二年七月大飯郡所属となる(日本紀略)。貽貝はイカヒとよみ(和名抄)、賦役令や『延喜主計式』には、調・中男作物の一種に、貽貝鮓・貽貝後折・貽貝冨耶交鮓があり、若狭国は貽貝保夜交鮨を調として納める定めである。八世紀の青郷からの贄品目としては、貽貝のほかに多比鮓(三九九)、伊和志腊(概報三)が知られるが、これら三品目は『延喜宮内式』の若狭国の贄品目にみられない。単位の塥は土器か。このほか御贄の多比鮓の単位に用いられている(三九九)。」

とあり、これでほぼ委細は尽くされている。

追記するならば、

(1)『倭名類聚抄』巻19鱗介部第30、亀貝類第238、古活字本13丁裏2行目に

爾雅注云貽貝一名黒貝[貽音怡和名伊加比]」


(2)『倭名類聚抄』巻19鱗介部第30、亀貝類第238、古活字本15丁表5行目に

漢語抄云老海鼠[保夜俗用此保夜二字]」


の記載を紹介するのみである。

それ故に、先の木簡の「富也」と「漢語抄云老海鼠[保夜俗用此保夜二字]」とを同一であると認定するに憚らない。
「富」の呉音は「フ」、漢音は「フウ」


貽貝に関する情報は鳥取県庁HPに詳しい。

sakana100sen-70.pdf


URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFISI07000122
木簡番号0
本文若狭国遠敷郡青郷御贄貽貝富也并作\○一塥
寸法(mm)148
27
厚さ3
型式番号032
出典城23-19上(194)(木研11-18頁-(2))
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京三条二坊八坪東二坊坊間路西側溝
Heijō Capital (Left Capital, Third Row, Second Ward, Eighth Block, East Second Ward, Street Between the Wards, West Side Ditch)
所在地奈良県奈良市二条大路南一丁目
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数193A
遺構番号SD4699
地区名6AFISI07
内容分類荷札
国郡郷里若狭国大飯郡阿遠郷若狭国遠敷郡青郷
人名 
和暦 
西暦 
遺構の年代観710-790
木簡説明 
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AFISI07000122

■研究文献情報😊


■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKN34000114
木簡番号201
本文富也交作
寸法(mm)142
17
厚さ2
型式番号051
出典藤原宮1-201(飛2-12下(116)・日本古代木簡選)
文字説明「富」は異体字「冨」。
形状 
樹種ヒノキ科♯
木取り板目
遺跡名藤原宮跡北面中門地区
Fujiwara Palace Site (Northern Side of the Central Gate Sector)
所在地奈良県橿原市醍醐町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
Department of Asuka and Fujiwara Palace Sites Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数藤原宮第18次
遺構番号SD145
地区名6AJEKN34
内容分類付札
国郡郷里 
人名 
和暦 
西暦 
遺構の年代観694-710
木簡説明富也交作は富也(ホヤ)のあえもの。『延喜主計式』では若狭国から調として貢進している。
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AJEKN34000114

■研究文献情報