『日本三代実録』の貞観七年(865)三月廿一日壬寅条には、以下の記述がある。
「相摸國鎌倉郡人大皇大后宮少屬從八位上上村主眞野。武散位從八位上上村主秋貞等。 改本居貫附河内國大縣郡。」
この記事で注目したいのは、かれら上村主氏の本貫を
*本居貫附河内國大縣郡
と定めたことである。
なぜか。
まず許されるのは、
*相摸國鎌倉郡へ移動する前の居住地本貫が河内国大県郡
であった想定である。むろん河内国から相模国へ直行したという仮定するばかりではなく、その途中に「寄り道」もあったかもしれない。また同一人物が2地点を移動したのではなく、2人の先祖であったかもしれない。いずれにせよ彼ら上村主家には、本源地を河内国大県郡であるという伝承もしくは信仰が存在していたと考えてよいだろう。百歩譲れば、鎌倉ではなく河内国大県郡が本源地だと他人より認定されることで、上村主家は名誉とか権威付け・称賛などの利益が期待できたかもしれない。さらに、かれら二人は鎌倉の住人ではなく、すでに京人であったとも推定できる。
我々の考察を展開する前に上村主真野・秋貞らの本籍地・河内国大県郡内には、「古墳時代の近畿地方で最大の鍛冶集落」 〔千賀2020〕と評される大県遺跡が所在することを念頭に置きたい。5世紀代に操業を開始、6世紀後半に盛期を迎える考古学的出土品があるそうだ。6-1.発掘調査された古墳 | 大阪府柏原市
さて、我々の調査の旅は、以下の二つの論文に全面的に依拠している。
① 丸山竜平「古代の鉄の生産・流通 操業開始年代の検討 」『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書』XXVI,20l5.03
② 押木 弘己「相摸國鎌倉郡人」上村主 氏をめぐって ─古代渡来系氏族の軌跡を探る」
である。
丸山氏が考古学者であるかどうかは未知。だから丸山論文が古代史学関係雑誌ではなく、加速器質量分析計関係の研究紀要に掲載されていることが不思議なのかは見当つかない。しかしながら私が生涯手にするはずもない雑誌であった。偶然にインターネット検索にHitしたので、一読。その研究視野の広さと情報量の豊かさ、着想の卓越さに、眼を奪われた。
古代史の専門家からすれば、私が基本的素養が欠けているから、そうした記述に驚くだけだと揶揄されそうだ。確かにそうだが、研究能力と時間と良質な研究者へのアクセスなどに限定がある以上、与えられた範囲内での思索の旅は許されるだろう。
一切の反論をするつもりではないが、何にも増して、考古学関係論文の多くは発掘調査報告書の延長線上にあり、その性格上、遺跡や出土品の精細なデータ説明と遺跡の評価を余儀なくされている。したがって、研究の領域に至らないままに、考古学者は次の発掘現場に長靴と作業服のままで走り出すことを余儀なくされる。もう少し静寂な環境で着実に文献調査の時間とか、あるいは出土品をじっくりと観察する時間の確保とか、さらには他の遺跡情報の比較などに時間を割くことができないものかと考えると、行政考古学の限界が実にもどかしい。
それだけに、丸山論文には、珍しく、そして希少な「問題の設定」が次のように記述されている。
>>「。古代国家発展の諸段階に呼応してみせる鉄生産の諸段階を遺跡に則して 時間軸を定めることは歴史の展開をリアルに描くことであり、歴史の研究にとって急務でありかっ 緊要の課題である。
この明確な問題意識の下で論が展開されるので、その記述の当否は不明だとしても、実に興味深い。
まず丸山氏は自らの考察を展開するために、「鉄生産にかかわる概念 製鉄遺跡に関連しての用語」を整理し、守備範囲を定める。
「 1、製鉄・製錬・たたら吹き、製錬津・鉄津・金糞、錦・玉鋼、箱型炉・竪形炉、下部構造、
ノロ・流動津、炉底津、鉄鉱石、砂鉄、沼鉄、
2、精錬・大鍛冶、碗型津、平炉、鋳鉄、ルツボ・取瓶、
3、鍛冶・小鍛冶・鉄器生産・碗型淳、鍛造剥片、
4、鉄穴、採掘穴、採集、カンナ流し、比重選鉱
5、炭窯・登窯型式・横口型式、輸・輔の羽口、踏輸・送風装置、覆屋・掘立柱建物、
6、鉄針・ 鉄床、金鎚、砥石、
7、副葬・供献鉄津、
8、工人、倭鍛冶、韓鍛冶、鉄師、選鉱夫、渡来人、村下」
そこで、丸山氏が注目したのは、
「上記諸工程が古代前期(~7 世紀)においては一貫して現地で行 われた形跡のない点にかんがみ、故意に工程を分離することで「鉄の支配」を図った玉権足下の工 房に着目した。」
である。
この丸山氏の指摘を踏まえて、我々の観点を加味するならば、次の通りである。
つまり鉄鉱石・砂鉄などの鉄原材料供給地と製鉄・精錬などの大鍛冶(錬鍛冶)技術、その技術を保有する大鍛冶専業集団の成立、大鍛冶技術伝播と渡来系技術工人、小鍛冶(錬鍛冶)技術と鉄製品の販路・納入先、工房で使用された鉱滓(スラグ)の分類(砂鉄系製錬滓、鉄鉱石系製錬滓、砂鉄系精錬鍛冶滓、砂鉄系鍛錬鍛冶滓か。そして鉄 成分<全 鉄、酸 化第一鉄と酸 化 第二鉄>と 造滓成分<酸 化鉄以外の酸化物>)や工房に残された木炭(そのC14年代測定結果)などの産業廃棄物が重要な分析視点だとして、我々に研究ツールを教える。
当面の関心を限定するために、大県遺跡に集中して考察を続けたい。丸山氏によると、
「大県遺跡のスラグの成分分析でも砂鉄由来のものはなくすべて鉄鉱石を原料とする。国内産鉄素材、そして朝鮮半島の鉄挺が小鍛冶での材料であろう。」
という。ちなみに丸山氏が指摘するに、
「朝鮮半島の製鉄原料は,磁鉄鉱であって砂鉄の使用は朝鮮時代以降である。」
であるという。
この点、日鉄テクノロジー社の
「古代の日本で、製鉄に利用された鉄鉱石(塊鉱)は磁鉄鉱です。世界各地の伝統的な製鉄では、他にも褐鉄鉱や赤鉄鉱を原料とする地域があります。しかし現在までのところ、日本では、主な製鉄原料として磁鉄鉱以外の鉄鉱物が遺跡から確認された事例はありません。
」製鉄関連遺物の調査<製鉄遺跡調査シリーズ> | 日鉄テクノロジー
という重要な指摘を重ね合わせると、すでに考古学界で通説であるように、
*「大県遺跡は朝鮮半島系渡来人によって営まれた5~6世紀代の工房跡である。彼らは朝鮮半島産製鉄原料・磁鉄鉱で作られた小型球状鉄塊(銑鉄)あるいは鉄塊(低炭素鋼)を日本列島に搬入するルートが確保できるとともに、大鍛冶・小鍛冶技術を朝鮮半島、特に加耶・百済・新羅3国から日本に持ち込み、河内国大県郡において国内最大級の鍛冶専門集団を形成した」
と理解できるようである。その結果、河内国大県郡住人が朝鮮半島に由来する渡来人系であると断定しても良いに違いない。
次に、押木氏の論文を取り上げたい。この論文に関して氏自身が論旨を整理して。
「筆者は『日本三代実録』にみえる「相摸国鎌倉郡人上かみの 村主すぐり 」氏について検討 を行った〔押木2021〕。そこでは、百済系渡来氏族と目される上村主氏が貞観七年(865)以 前に鎌倉郡に戸籍を有していたこと、そして郡域に分布する諸種の考古資料から、彼らの鎌倉への移住目的が製鉄や寺院造営に資する新来技術の扶植にあったとする仮説」
を取り上げたという。「百済系渡来氏族」であったかどうかは留保するとしても、この押木氏の説明は魅力的であり、これ以外の解を見いだせない。
それでは、上村主氏が半島系渡来人であったと仮定しながら、次の考察に移りたい。
<参考①>鉄の分析法
- 成分組成を調査する方法:化学分析;ICP-AES、ICP-MS、GC-MS、蛍光X線、EPMA、EDS、IR等
- 化合物形態を調査する方法:X線回折(XRD)、XPS、ラマン分光等
- 局所的元素分布を調査する方法:EPMA、EDS、AES等
- 形態、構造、金属組織を調査する方法:X線CT、X線透視、SEM、三次元計測、光学顕微鏡等
- 含鉛試料の原料の産地を推定する方法:鉛同位体比分析
<参考②>