2024年2月21日水曜日

大原采女勝部鳥女」、故郷出雲国へリターン

古代九州の采女に 関する研究の参考情報


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 『続日本紀』《天平十二年(七四〇)六月庚午【丙辰朔十五】

「大原采女勝部鳥女還本郷。」

この記事は前後と文とは無関係に挿入されているために、ともすると見逃しがちであるが、事実は、采女勝部鳥女が「本郷」である「出雲国大原郡」に「還」ったいう内容である。その理由は明記されていないが、『続日本紀』に特記している以上、特別な理由があったとみるべき だろう。

 ところで見逃しがちな論点は、

*采女には任期規定が存在しない

ことである。一度、都へ貢進されるとほぼ終身の任期であったと考えてよい。それは仕丁と同一である。


事実、出土した木簡には、

木簡庫 奈良文化財研究所:詳細 (nabunken.go.jp)

■詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK011028000029
木簡番号0
本文□□□出雲国大〈〉\大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂〈〉
寸法(mm)(377)
40
厚さ2
型式番号019
出典東大寺防災-(1769)(日本古代木簡選・木研11-28頁-(29))
文字説明 
形状下欠。
樹種 
木取り 
遺跡名東大寺大仏殿廻廊西地区
所在地奈良県奈良市雑司町
調査主体奈良県立橿原考古学研究所
発掘次数旧境内第9次
遺構番号
地区名
内容分類
国郡郷里出雲国大原郡佐世郷
人名勝部□智麻呂
和暦 
西暦 
木簡説明 


とあり、すくなくとも大原郡佐世郷に勝部一族が居住していた。『出雲風土記』から、

大原郡:大領:勝部臣、少領:額田部臣、主政:日置臣、主帳:勝部臣

は判明しており、しかも同風土記には、

【大原郡】 斐伊郷…新造院:堂/僧5躯/大領勝部臣虫麻呂 新造院:堂/尼2躯/斐伊郡人樋伊支知麻呂 屋裏郷…新造院:層塔/僧1躯/前少領額田部臣押島(今少領伊去美の従父兄) 

とあることから

大領勝部臣虫麻呂 

*少領額田部臣伊去美+従父兄であり前少領額田部臣押島

の3名の名前を知る。

『出雲国風土記』大原郡条

「 所三以号二大原一者、郡家東北〔正西〕一十里一百一十六歩、田一十 町許平原也。故号曰大原。往古之時、此処有郡家、今猶追旧 号大原〈今有郡家処号云斐伊村〉 。 (中略)斐伊郷、属郡家。 」

とあり、大原郡では、郡家の移動があった。

 我々の関心を引くのは少領額田部臣の存在である。欽明天皇の娘額田部皇女(推古天皇)の額田宮に使える額田部臣(職名+臣)は元来勝部臣よりも上位の豪族であった。その証拠に、岡田山一号墳出土大刀銘に「各田卩臣□□□□□大利□」も登場する額田部臣であり、岡田山1号古墳が位置する出雲を支配した一族は「出雲臣」で地名+臣であったはずだが、大刀銘文に記されたのは「額田部臣」であった。額田部臣が出雲を支配する一大勢力であった。それにもかかわらず、大原郡では大領と少領との勢力が逆転していることからして、上記の木簡資料の

大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂

は郡家が大原郡佐世郷から斐伊郷への移転を語る傍証にならないだろうか。


誰しもが思い出す大化改新の詔には、

凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁。」(『日本書紀』二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。)

とある、律令制下の日本では、全国を五畿七道に分け、その国には都から国司が派遣されたが、郡では律令制以前から支配していた在地豪族が終身の郡司に任命されていた。これは、各国において、郡司の郡支配を保証するとともに、その一方で中央政権の一端に組みこまれていたともいえよう、

こ 采女は天皇による郡統治の保証書であると言え、人実であるともいえよう。

つまり采女は郡司(大領もしくは少領)の姉妹もしくは子女で、しかも形容端正(容姿端麗)の者を貢進せよとある。今ここでは大化の改新の詔の信ぴょう性に関しては論じないが、すくなくとも采女は誰でもよかったのではなく、中央と地方の支配隷属関係を裏付けるものであったと考えたい。

 しかも「以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁」とある限り、采女の出身国の農民100戸から「庸布」を物納させたとある。1戸につき五斗の庸米であるので、100戸で500斗、穀で100斛。和銅大升では穀100斛が稲1000束。とすれば、田2町歩に該当する面積の稲田を郡司は農民に耕作させ、そして都の采女に送付して生活費に充当させていた。

何よりも、『続日本紀』に

《天平十四年(七四二)五月庚午【廿七】》○庚午。制。凡擬郡司少領已上者。国司史生已上、共知簡定。必取当郡推服。比都知聞者。毎司依員貢挙。如有顔面濫挙者。当時国司、随事科決。又采女者。自今以後。毎郡一人貢進之。」

とあり、その当時550郡存在したので、この記述通りに進めば、550人の采女が都に送られた。


付記)

【綱文和暦】
大同2年5月13日(08070050130)
【綱文】
出雲国の采女勝部真上が病で郷里に帰り、稲五百束を賜る。


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