大宰府に関しては、鏡山猛先生説を訂正した井上信正説が今日の定説になりつつある。
「大宰府条坊は南北22条、左郭12坊、右郭8坊で条坊1区画は約90メートル四方」が井上説である。大勢に影響力を持たない賛同だが、私も井上説に軍配を上げる。
太宰府市文化ふれあい館 歴史の散歩道(史跡スポット) (dazaifu-bunka.or.jp)
さて、その次である。
私の想像に過ぎないが、大宰府の条坊道路が殺風景であったはずはないと考える。つまり、メインストリートである朱雀大路にしても、その道幅は35メートルから36メートルである。
*大宰府の条坊道路に、例えば柳、あるいは橘・槐などの街路樹が植えられていたランドスケープ
*条坊道路に側溝
を思い浮かべたい。たとえ樹木が植えられていたとしても、人々の通行や物の運搬、さらには兵士の行進にさまたげにならなかっただろう。まったく根拠のない考えであり、これ以上は妄想の世界に遊ぶと論難されるかもしれない。しかしながら、任地の越中国で詠んだ大伴家持の歌、
「はるのひに、はれる柳をとりもちてみれば、都の大路しおもはゆ」(万葉集、4142番歌)
を重ね合わせた、我が想像の翼であると正直に告白しておきたい。
ただし、いつの日か、太宰府の発掘現場から街路樹の痕跡がヒヨイト顔を覗かせるだろう。
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