2024年2月21日水曜日

出雲国のエミシ・蝦夷

 以下は、武廣 亮平著「古代のエミシ移配政策とその展開 」(専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 3 号 2017年3月)の教示に全面的に依拠した紹介である。武廣氏に感謝する。

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出雲国に移配されたエミシは、

*『類聚国史』延暦 19 年(800)3 月 1 日条    

「出雲国介従五位下石川朝臣清主言。俘囚等冬衣服、依 例須 絹布混給 。而清主改 承前例 、皆以 絹賜。又毎 人給 乗田一町 。即使 富民佃之。新到俘囚六十餘人、寒節遠来、事須 優賞 。因各給 絹一疋、綿一屯 。隔 五六日 、給 饗賜 禄、毎 至 朔日 、常加 存問 。又召発百姓 、令 耕其園圃 者。 勅、撫 慰俘 、先既立 例。而清主任 意失 旨、饗賜多 費、耕佃増 煩、皆非 朝制 。又夷之為 性、 貪同 浮壑 。若不 常厚 、定動 怨心 。自今以後、不 得 更然 。」


  以下の史料は出雲介である石川朝臣清主が「俘囚」(エミシ)に対しておこなっている独自の処遇である。

*『類聚国史』弘仁 5 年 2 月 10 日条  

第一等遠胆沢公母志授二 外従五位下 。以討出雲叛俘之 也。 

*『類聚国史』同 2 月 15 日条  

「 出雲国俘囚吉弥候部高来・吉弥候部年子、各賜 稲三百束 。以遇荒橿之乱、妻孥被害也。 」

*『類聚国史』同 5 月 18 日条  

「 免  除出雲国意宇・出雲・神門三郡未納稲十六万束 。縁 有 俘囚乱 也。」

*『日本後紀』同 11 月 9 日条 

「免 出雲国田租 。縁 有 賊乱及供蕃客也。 }


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これらの武廣氏の研究から触発されるのは、大宰府に移送されたエミシ・蝦夷たちの「その後」である。

 これに関する私見は後日に発表する。



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