2024年2月21日水曜日

長門国・周防国の相撲取り6人、天平10年七夕節の平城宮場所へ行く2024年1月2日版

 正倉院所蔵の『周防国正税帳』天平10年(738)に、相撲に関する興味深い記事がある。

6月20日条:長門国相撲人3人

6月21日条:周防国相撲人3人

の記事である。平城京へ向かう6人であるが、いずれも相撲取りとある。両国から選抜された、腕っぷしの強い力自慢の者たちが平城京での相撲大会に出場したかもしれない。

どうやら各国から相撲取り(相撲人)が平城京へ派遣されたらしい。平城京場所の具体像は不明であるが、相撲本来が神事であったと考えられるので、平城京で挙行された儀式に参加する力士であったらしい。

自然に連想するのは『続日本紀』天平10年(738)7月癸酉(7日)の


秋七月、丁卯朔癸酉,天皇御大藏省、覽相撲。晚頭、轉御西池宮。因指殿前梅樹、敕右衛士督下道朝臣真備及諸才子曰、人皆有志、所好不同。朕去春欲翫此樹、而未及賞翫、花葉■(サンズイ+遽)落、意甚惜焉。宜、各賦春意、詠此梅樹。」

の記事である。これによって、7月7日、七夕の日に天皇の前で相撲する「天覧相撲」に参加するために、長門国・周防国から各3人の相撲取りが派遣されたに違い。
 この平城京場所に関しては、『続日本紀』天平6年7月丙寅(7日)の記事、
「天皇観相撲戯」
である。これによって、開始時期は不明であるものの、平城京において、しかも天覧相撲大会が開催され、その時期は7月7日の七夕節であったと断じてよい。

当然ながら思い浮かべるのは、『続日本紀』神亀5年(728)4月辛卯(25日)条に

辛卯、敕曰、如聞、『諸國郡司等,部下有騎射、相撲及膂力者、輙給王公、卿相之宅』有詔搜索、無人可進。自今以後,不得更然。若有違者、國司追奪位記、仍解見任。郡司先加決罰、准敕解卻。其誂求者、以違敕罪罪之。但先充帳內、資人者、不在此限。凡如此色人等、國郡預知、存意簡點、臨敕至日、即時貢進。宜告內外咸使知聞。」

とある記事である。これによると、各国の国司および郡司に命じて「騎射・相撲・膂力者(「凡そ此の如き色の人達」)を天皇に進上せよとある。先の『周防国正税帳』の記事は、この勅命に即応した相撲取りの派遣であったと考えてよいだろう。


 では、相撲取りの名(しこ名)は判明しないだろうか。管見の限りでは、「出雲国計会帳」断簡に見る、

「廿三日進上相撲人蝮部臣真嶋等弐人事」(続・修 35-6)

とある記事を思い起こす。この一連の断簡が天平6年代であったと推定されることから、これは天平6年の5月もしくは6月の23日に進上されたと想定しての不自然ではないだろう。上記の周防国・長門国の事例から判断すれば、天平6年6月であったと推定する。

彼ら相撲取りを平城京へ引率するのが、「相撲部領使」(万葉集864番歌)であったのは周知の事実。

そして万葉集886番歌にみる

「大伴君熊凝は、肥後国益城郡の人なり。年18歳にして、天平3年6月17日に、相撲使某国試官位姓名の従人と為り、京都に参向ふ」

とある「相撲使」も「相撲部領使」(万葉集864番歌)と同一であろう。なお、従人とある大伴君熊凝も相撲人であると推定される。

とすれば、これら諸国から進上された七夕節の相撲大会を主管し、相撲取りを管理する役所が必要となるが、定説通りに、『続日本紀』養老3年7月辛卯(4日)条にある、

「秋7月辛卯、初めて抜出司を置く」

の「抜出司」を想定したい。

 次の平城京出土の墨書土器の例は、近江昌司の教示によるが、

「昭和58年来3次にわたって発掘調査を施工された平城左京2条2坊12坪には、坪の中心に正面廂の正殿建築があり、周囲に廻廊をめぐらし、南面中央に門を開くという宮殿形式の建築配置を認めた」(「背奈福信と相撲」『古代史論集』中、塙書房、1988年、158頁)

の場所から、「左相撲」、「相撲所」を墨書した土器が発掘されたと紹介する。その典拠である奈良市教育委員会編『平城京左京二条二坊十二坪 奈良市水道局庁合建設地 発掘調査概要報告 』によると、奈良市法華寺町266番 地の 1他 の地より出土した土器の中に、

*「相撲所」(土器番号54「相□(撲カ)所」、88「相撲所」)

*「左相撲」(土器番号89「左相□(撲カ)」

(前記書、36-37頁)

とある。どうやらこの平城左京2条2坊12坪付近に「相撲所」(相撲部屋)が存在した可能性を指摘しておきたい。


なお、次の木簡も相撲に関係するが、この人物も平城京場所に出場したかもしれない。出土場所が「平城京式部省東方」とあり、相撲会場とは無関係である。「木善佐美」は「しこ名」かとも思えるが、この時代に勧進相撲はあり得ないので、名前であろう。

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAIBN14000111
木簡番号0
本文・甲斐○□□ε(二人の人物画)・【千□】○木善佐美\○人国国\○忍○乃止国○未年ε(相撲絵)
寸法(mm)(209)
47
厚さ4
型式番号065
出典木研20-17頁-1(98)(城34-20下(214))
文字説明 
形状上欠(折れ)、下欠(折れ)、左削り、右削り。
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮式部省東方・東面大垣東一坊大路西側溝
所在地奈良県奈良市佐紀町・法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数274
遺構番号SD4951
地区名6AAIBN14
内容分類文書?・習書
国郡郷里 
人名木善佐美
和暦 
西暦 
木簡説明 

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