かって、次のような問題を提起した。
>>霊亀2年(716)8月20日に正六位下藤原馬養は第8次遣唐使副使に任命された。同年8月26日に宇合は従五位下に昇叙した。ところがこの「馬養」は養老3年正月壬申条にも、そして養老5年正月壬子(5日)条にも「馬養」の名を発見する。なるほど養老3年7月庚子条には「藤原宇合」とあり、官職名からしても「藤原馬養」が「藤原宇合」と同一人物である。従来の考えでは、遣唐使として唐に派遣された馬養がその名を恥じ、誤解されないように表記を変更したという。
それを受けて、
>>私が問題としたいのは、
*「宇合」をどのように読んだか
である。「宇合」として表記は統一されるのは、確かに神亀元年(724)4月丙申(7日)条からである。 だからとしても、「宇合」を「ウマカヒ」と読むべきだとする資料は見当たらない上に、「宇」の漢字を「U」と読むとしても、浅学にして「合」の漢字を「Makai」と読む用例を知らないからである。
と書いた。
本コーナーで紹介したいのは、
桑原祐子著「正倉院文書の国語学的研究」思文閣出版、2005年
である。愚鈍にして迂闊、全く本書を知る機会がなかった。力作である。
そもそも正倉院学などがあるかは知らないが、注目すべきは、桑原祐子氏は専門の国語学に加えて、古代史学・古代文書学・書誌学・書道学などの、隣接諸学を総動員する研究手法である。さらに関係資料の生半可な収集ではなく、正倉院文書全体を知り尽くした桑原氏ならでの徹底的な調査の上に、これまた精緻な論が展開されている。いわば「ぐうの音も出ない」ほどであり、その通りですと読み手は返すしかない。例えば、自著と署名の違いまで、凡庸な研究者であれば、活字版とデータベースで済ますところを、一つ一つ写真版にあたり、資料調査の極限に達している。膨大な調査時間を要したはずである。その調査を実現するために、何を捨て、何を優先なさったのか、その着実な研究姿勢に脱帽する。
さて、「造東大寺司が設置された天平20年頃から宝亀年間までに造東大寺司の4等官および写経所の案主に在職した人物のうち、個人名表記に複数の異表記のある人物14名」(114頁)
の実態に及ぶ。
1,阿刀造与佐美・予参・預参
2,上村主馬甘・馬養
3,小野朝臣国方・国堅
4,石川朝臣豊万里・豊万呂・豊麻呂
5,山口忌寸沙弥万呂・佐美麻呂・沙美万呂・沙巳万呂
6,国君麻呂・国中連公麻呂
7,石上朝臣奥継・奥嗣
8,大蔵忌寸萬里・麻呂・万呂
9,安都小足・男足・雄足
10,佐伯宿祢真守・麻毛流・麻毛利
11、葛井連犬養。犬甘
12.他田水主・三主
13、佐伯宿祢今毛人・今蝦■
14、吉備朝臣真備・真吉備は2例
これら14例のトレーニングを重ねた後、「藤原ウマカヒ」の検討に移る。
『万葉集』に「宇合」は5例、『懐風藻』に「宇合」2例、『続日本紀』霊亀2年8月から延暦4年9月まで「宇合」・「馬養」両方で25例を調べ上げて、次のような結論に逢着する。
「おそらく「宇合」も、渡唐を契機とした本人の意図的改字と考えてよいのではないだろうか」(142頁)
と記述する。
しかも、私の疑問点にしても、同一な疑問を抱き、
「『宇』は音仮名として『ウ』に充てられたのであろう。藤原宇合以外で「合」をカフ(カヒ)に充てたと考えられている。いずれにしても、ウマカヒの『マ』に相当する部分が表記として欠落している」(143頁)
と問題を提起する。もちろん慧眼な桑原氏の考察はさらに一歩進み、
「『宇合』という表記は、式部卿藤原ウマカヒの個人名の音形式「ウマカヒ」が広く認識されていることを前提にして、成り立ち得る表記である」【143頁】
に至る。
桑原氏の考えは極めて穏当であり、その理解は大きく誤ることはないだろう。それでもしつこいようだが、私は、
*「マ」に相当する表記の欠落
が気になる、なお、桑原氏もとっくに気づいておいでのことと思うが、あえて記述なさらなかっただろう、
1,石川朝臣豊万里・豊万呂・豊麻呂の「里(Ri)と呂(Ro)」
2、佐伯宿祢真守・麻毛流・麻毛利の「流(RU)と利(Ri)」
の違いにも私はこだわりたい。
しかしながら、私には成案がない。
なお、桑原氏のような好学の士を見逃してきた私の不勉強を恥じ入る。桑原氏の今後の健筆を期待したい。
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