2024年3月31日日曜日

小野朝臣春風奏言すーー北方海上通商ネットワーク

 『三代実録』貞観12年(8703月29日条に、

「従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風奏言す。故父従五位上小野朝臣石雄家の羊革甲1領、牛革甲1領、陸奥国にあり。去る弘仁4年(814)、賊首吉弥侯止彼須・可牟多知ら逆乱の時、石雄彼の甲を着して、残賊を討ち平ぐ。その後、兄春枝之を進む。望み請うらくは、羊革甲を給ひて、以て警備に宛て、帰京の日、全て以て官にすすめんと。詔して之を許す。其の牛革甲は陸奥権守小野朝臣春枝に給う。」

とある。この短文は7段に分かれていることに気付くだろう。

    従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風奏言す。

②故父従五位上小野朝臣石雄の羊革甲1領、牛革甲1領が陸奥国にあり。

③去る弘仁4年(814)、賊首吉弥侯止彼須・可牟多知ら逆乱の時、石雄がその甲冑を着して、残賊を討ち平ぐ。

④その後、兄春枝之を進む。

⑤望み請うらくは、羊革甲を給ひて、以て警備に宛て、帰京の日、全て以て官にすすめんと。

⑥詔して之を許す。

⑦其の牛革甲は陸奥権守小野朝臣春枝に給う。

 

従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風は故父従五位上小野朝臣石雄(生没年不詳、征夷副将軍・陸奥介・小野永見の子)の子である。その父小野朝臣石雄が「羊革甲1領、牛革甲1領」を着用して「去る弘仁4年(814)、蝦夷系の賊首吉弥侯止彼須・可牟多知らが逆乱の時」に、この戦闘で軍功を挙げたとある。

 蝦夷軍との間で、

「自 宝亀5年、至于当年、惣卅八歳、辺寇展動、瞥口無 絶、丁壮老弱、或疲於征戌、或倦於転運 。百姓窮弊、未得休息 」(『日本後紀』弘仁2年閏12月辛丑条)

とあるように、宝亀5年(774)から始まった38年間に及ぶ長期戦は、征夷将軍文室綿麻呂による弘仁2年(811)の征夷軍派遣によって終わりを告げた<この争いに関しては熊田亮介氏などによって、最新研究成果が取りまとめられているので、それに譲り、ここでは再論しない(『古代国家と東北』吉川弘文館、2003年)>。

 ところで、その色も形状も機能なども分からないずくしだが、小野朝臣石雄愛用の羊革甲とは何であっただろうか。

羊革は生後1年以上の羊の革をsheepskin、生後1年以内の子羊の革をLambskinというが、この父着用の羊革がいずれであったかも不明である。たしかに牛革や馬革に比べて武具としてはデリケートで傷がつきやすく破れやすいという弱点があるものの、羊革は甲冑として手触りの柔らかさと軽さは他の革にはない大きな特徴である。しかも一般的に羊革は毛皮のように羊毛が付いた加工されるので、防寒具にも最適である。

ところで、周知のとおり古代日本甲冑(腰回りの防御である草摺など)の材料の主体は鉄と革(牛、馬、鹿)と木片、綿(綿甲もしくは綿)などであり、組紐である。寡聞にして材料が羊革である甲冑の存在を知らない。

そもそも羊の日本における初見は、『日本書紀』推古七年(599)秋9月癸亥に、百済が駱駝一匹・驢(ロバ)一匹・羊二頭、白い雉一羽を献上したという記事(七年秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻))である。この記事からしても、羊は、今で言えば「パンダ」と同様に外交的珍獣と考えられ、「奈良時代にはヒツジの飼育記録はなく、考古学的にはヒツジの骨の出土例も 認められない」(廣岡隆信「奈良時代のヒツジの造形と日本史上の羊」『奈良県立橿原考古学研究所紀要―考古学論攷』第 41 冊 2018年、38頁)。この事実は平安時代初期も同様で、廣岡が「平安時代にはヒツジを恒常的に飼育しておらず、霊獣や貢物として日本へ連れて来られることはあっても、その増殖に成功することはなかったと考えて良い。海外からの一時的な羊の渡来の機会にのみ、一部の上級階層だけがその羊を目にする状態が続いていたのである。」(同上論文、39頁)とも指摘している。

小野朝臣春風が生きた時代に羊が畜養されることはなかったと推定してよいならば、父小野朝臣石雄はどこから羊革を入手しただろうか。

ここで、征夷将軍文室綿麻呂の征夷軍約2萬人の兵力が陸奥・出羽からの徴兵でまかなわれたこと、そして実際の戦闘の主力は陸奥・出羽両国の「俘軍」(蝦夷系住民、「概養蝦夷・夷囚・浮囚などと呼称)であったことに注目したい。つまり中央政府による征夷が終わりにあたり、「俘軍」の参戦が決定的な役割を果たしたにもかかわらず、『日本後紀』弘仁4年(8132月戊申条に

 「制 、 損稼之年 、 土民・ 俘囚 、 咸被其災 。 而賑給之日 、 不及俘囚 。 飢題之苦 、 彼此応同 。 救急之患 、 華蛮何限 。 自今以後 、 宣准平民 、 預賑給例 。 但勲位、村 長及給根之類 、 不在此限 」 

とある。「限給之日 、不及俘囚 」 の言に端的に表れているように、出羽・陸奥両国における小野朝臣石雄の周囲には、「蝦夷系住民と非蝦夷系住民」とが混住していた。今、当該の記事に見る「賊首吉弥侯止彼須・可牟多知ら逆乱の時」とは、本来投降した蝦夷系住民であった「吉弥侯止彼須・可牟多知」らが陸奥・出羽国守に反旗雄翻し、「逆乱」と化し「賊首」となったと理解される。つまり律令体制に編入された蝦夷系集団の反乱を、小野朝臣石雄が鎮圧した史実を物語ろう。

結論から言えば、小野朝臣石雄が入手した羊革は出羽国秋田城およびその周辺であったと思う。次の記事を念頭に置くからである。

 「類聚三代格』延暦 21 年(8026 24 日太政官符には、

「 太政官符  禁断私交易狄土物事、 右被右大臣宣䆑,渡嶋狄等来朝之日,所貢方物,例以雑皮。而王臣諸家競買好皮,所残悪物以擬進官。仍先下符禁制已久。而出羽国司寛縦曾不遵奉。為吏之道豈合如此。 自今以後,厳加禁断。如違此制,必処重科。事縁勅語。不得重犯。         

 延暦廿一年六月廿四日」(『類聚三代格』巻十九) 

「私に狄土の物を交易するを禁断する事、 右、右大臣の宣を被るに偁く、渡嶋の狄ら来朝の日、貢ぐところの方物は、例、雑皮を以てす。 而るに王臣諸家、競いて好き皮を買い、残るところの悪しき物を以て官に進めんとす。仍て先に符を下して禁制すること已に久し。而るに出羽の国司、寛縦にして曾て遵奉せず。吏たるの道、豈にかくの如くあるべけんや。自今以後、厳かに禁断を加えよ。如しこの制に違わば、必ず重科に処せん。事は勅語に縁り、重ねて犯すことを得ざれ」(関連資料として、『類聚三代格』延暦21 年(787)6月24日太政官符や、『日本後紀』弘仁 6 年(8153 20 日条も参照)

とある。ここで関心を引くのは、「渡嶋狄ら」が出羽国を来訪するときに、その交易品として「雑皮」(各種の毛皮類)を持参する。しかしながら京の「王臣諸家」から派遣された資人らが「好皮」を先に買い、「残るところの悪しき物を」(粗悪品)を官に納入するという記事である(関口明 「渡嶋蝦夷と毛皮交易」『日本古代中世史論考』吉川弘文館、1987年。蓑島栄紀  『「もの」と交易の古代北方史  ―奈良・平安日本と北海道・アイヌ』勉誠出版、2015年など関連論文多数)。この「雑皮」に関しては、

「出羽国〈熊皮廿張。葦鹿皮。独犴皮。数は得るに随う。〉」(延喜式』民部下・交易雑物)

を念頭に置くべきであろうが、我々の視点はさらに一歩進めたい

 ここで、簔浦栄樹の卓抜な研究視点を紹介したい。

 「続縄文後半期以来,北海道と本州北部社会のあいだには多様な交流のルートが存在した。ところが,7 世紀後半の北方政策に端を発し,733 年の秋田城設置につながる王権・国家の日本海ルート重視の姿勢は,この交流ルートの変遷に多大な影響を及ぼした。(中略)秋田城交易の定例化と肥大化にともない,9 世紀初頭には津軽海峡を越える交流における秋田城交易の独占化が進む。」(簔浦英樹「古代北方交流史における 秋田城の機能と意義の再検討」『国立歴史民俗博物館研究報告』第 232 集、2022 年 、139頁)

そして

「秋田城が渡嶋エミシに対する朝貢・饗給機能を担い,北方世界の「交易港」として機能していた 8 世紀中葉~ 9 世紀の期間,これに寄生・便乗しつつ生まれた経済的・社会的な諸 関係は,9 世紀末~ 10 世紀に進展する次代の北方交易の種子を用意したとみなされる。」(前掲論文、140頁)

に全面的に賛同して、我々の考察を続けるならば、小野朝臣石雄の羊革の原材料も北方交易港であった秋田城に、渡島蝦夷さらに北方海上通商ネットワークによって中国大陸から交易品の一つとして将来された品であると推定する。それを裏付ける資料は見当たらないが、簔浦が紹介する、

 「秋田県では,初期貿易陶磁器として,秋田城跡から越州窯系青磁水注 1 点,邢窯系白磁皿 1 点, 邢窯系白磁托 1 点が,払田柵跡から越州窯系青磁皿 6 点が,内村遺跡(仙北郡美郷町千屋,払田柵 関連集落)から越州窯系青磁皿 1 点が,小林遺跡(山本郡三種町鯉川)から越州窯系青磁碗 1 点が 出土している。年代的には,8 9 世紀初の秋田城跡出土の越州窯系青磁水注を嚆矢に,9 世紀半 ばを中心に流入し,10 世紀代まで確認されるという」(前掲書、134頁。簔浦が引用するのは、山口博之「奥羽の初期貿易陶磁器」『北方世界の考古学』すいれん舎、 2010]、ただし筆者未見)

など、中国系遺物が出土していることを傍証とする。

 さて、我々の当面の課題である小野朝臣春風が父石雄着用の羊革甲に関して、我々の研究視点である「北方海上通商ネットワーク」の上で日本に渡来した品(羊革 ヤンピーyángpí)であったという仮説を提示しておきたい。

 なお、従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風の在任時

に関する私説?珍説?は別稿で紹介する。


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