2024年4月6日土曜日

小野朝臣春風、「能く夷の語を暁れり」(蝦夷語)


 『三代実録』貞観12年(8703月16日条に、従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風の名前を見る(巻17,国史大系第4巻、313-314頁)。

それによると、

「16日戊辰、従五位下行対馬島守小野朝臣春風進起請2事、其1曰、軍旅之儲、□在介冑、雖溝、助以侶、望請、縫造調布保侶衣千領、以備不慮。其2曰、軍與不慮、倍日兼行、転餉易絶、輺重難給、望請以調布、縫造納□帯袋千枚、可帯士卒腰底、以支急速之備、詔従之、以大宰府庫布造充之」

この保侶衣の用途に関しては定説はないが、私見によると、矢を防ぐ道具でもあったらしい

 『三代実録』貞観12年(8703月29日条によると、この春風の対馬での戦闘服は、

「故父従五位上小野朝臣石雄家の羊革甲1領」

であった。その色も形状などの情報はないが、少なくとも対馬では誰も着用することのない珍しい東国式甲冑であったと考えてよい。つまり蝦夷との戦いの中で小野朝臣石雄が数々の軍功を挙げた時に愛用していた甲冑であった。小野朝臣春風にとって、それだけに自慢の品であり、しかも朝廷への献上品であったことも春風の心を満足させただろう。

 この春風は、三善清行著『藤原保則伝』(日本思想大系8,岩波書店、1979年)によると、

「春風少くして辺塞に遊び、能く夷の語を暁れり」(同書、67頁)

とあり、蝦夷語を駆使できたようだ。その伝に見るように、

「民夷雑居」(68頁)「与民雑居」(『日本三代実録』元慶4年2月25日条)状態にあった出羽国、そして秋田城周辺において蝦夷系住民と非蝦夷系住民とが同一地帯に混住していたので、彼の幼き頃に、あるいは父石雄が同地に進駐していた時に、自然と蝦夷語を習得したと考えるのが妥当である。しかも蝦夷との戦いにも、なにも京から派遣された軍勢だけでなく、東国から徴兵された和人と共に、朝廷に帰服した蝦夷系の人々との合同で編成されていた。したがって、戦闘には、どうしても蝦夷語の習得は不可欠であった。

冒頭書の蝦夷語との比較にしても、あくまでも江戸時代の資料でしかないので自ずと限界があるものの、蝦夷語の一端を知る参考資料である。




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