2024年3月17日日曜日

大宰府管内諸国の「京宅」の有無

 大宰府の京宅

『類聚三代格』寛平三年九月十一日官符によれば、調庸物を運搬してきた綱領らが官物を横領し京宅を購入していたそうだ。

 この一文は様々な想像を可能にする。

毎年、遠路はるばる、大宰府から京へ輸送してきた者たちにもてきようできないか、と。

彼ら調庸物の運搬者(「担夫」)たちが京にまずは定宿を決め、そこに官納する前に臨時の荷物保管場所とすることはありえる。その定宿をあっせんしたのは、大宰諸国から派遣された舎人集団や、運搬集団の家族であったり、京に残った運搬者たちであったにちがいない。なぜならば、京内の不動産情報や朝廷とのつながりを持っていたからである。右も左も分からない地方者にとって、同郷の出身者は心強い。何よりも人間ネットワークも強く、しかも方言も通じる上に、食べ物も懐かしい。その京宅は次第にさまざまな利益をコントロールする場所となり、ついには太宰府の出先機関となつたに違いない。

京と地方の地域社会を結ぶ最大の往来は毎年2月・4月・6月 ・8月に舂米輸納、冬十月からの調庸輸納であった。その折に全国から数千名に及ぶ輸送担当者・駄馬が往来したが、その宿舎・食事場所・荷物などの一時保管場所。療養施設などを想像したに過ぎない。

 地方で富豪な者は京内で住宅を購入するのも、自然な流れである。

これは私の想像に過ぎないが、そうした視点で平城京の、街並みを眺めても良いかもしれない。

ちなみに、武蔵国では入間郡人大伴部直赤男が神護景雲3年に西大寺へ商布1500段、稲7万4千束.墾田10町.林60町を寄進したことにより、宝亀8年6月5日に外従五位下を与えらている。日本各地に枚挙のいとまないほどに富農が出現している。彼らが指をくわえて、京人の言うがままにするはずがない、

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