2024年3月4日月曜日

古代日本のハイウェー(2024年3月1日改訂)

(1)東日本 

 ①ー0 犬上郡甲良町尼子西遺跡

1996年に犬上郡甲良町尼子西遺跡(内田1998)において足利健亮推定ルート上で路面幅12メートルが出土。

①ー1国分寺市泉町二丁目の西国分寺住宅の東側にある東山道武蔵路跡は、上野国(現在の群馬県)から南下して武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)。発掘調査の結果、幅12mの道路跡が出土、

①ー2栃木県大田原市湯津上の「小松原遺跡」で確認された東山道の両側にある側溝と溝との間隔が9~12メートル。


①ー3群馬県太田市にある新田郡家遺跡では、郡家の南500メートルにある「牛堀・矢の原ルートの幅員は13メートル。この古代道路は伊勢崎市矢の原遺跡から太田市久保畑遺跡まで10キロメートル以上一直線に伸びているという。

(小宮俊久「上野国新田郡家の景観」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017、235頁)


①ー4 埼玉県所沢市久米の東の上遺跡

 平成元年(1989)実施調査で、南北方向に全長100メートルの側溝をもつ幅員12メートルの道路を発掘。この道路は武蔵支路であるが、支路でさえも、大道とほぼ同一に設計された公道整備。


④-1古代東海道の場合、2021年に滋賀県栗東市高野遺跡で発掘された古代の官道「東海道」の跡の道幅は約16メートル

④-2:平成6年、静岡市駿河区曲金北遺跡で発見された古代東海道の遺構は、道幅約9m(両側側溝の幅2から3メートルを含めると道路幅は12mから13メートル)。

(鈴木敏則「静岡県伊場遺跡群と遠江の古代交通」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017、313~314頁)

④ー3「市原条里制遺跡の古代道や、五所四反田遺跡の古代道路跡は、駅路から分岐した伝路と推定され、台地上の古代道と同じ規格で、約6メートルの道幅で側溝が両側にあります。

 これらの伝路は、海岸線に近い海岸砂丘上の古代東海道駅路から分岐して、上総国府(推定地)へ向かうもので、国府からさらに南下する道路が、山田橋地区の古代道路跡と推定されます。」(近藤敏氏報告、049海岸から台地へ海岸平野を通り抜ける古代の道/市原歴史博物館 (imuseum.jp)近藤敏2004年「五所四反田遺跡について」『市原市八幡地区の遺跡と文化財』市原市歴史と文化財シリーズ第九輯平成16年度歴史散歩資料 市原市地方史研究連絡協議会

(2)西日本

②ー1九州では、博多湾に面した丘に建つ鴻臚館と大宰府を結ぶ官道(水城西門ルート)は、1978年に発掘調査された春日公園内遺跡から幅9メートルであると判明。

③古代山陰道ー1 2021年に発掘された鳥取市養郷狐谷遺跡(鳥取市青谷町養郷地内)の発掘調査で発見された古代山陰道の道幅は9メートル。



③ー2 善田傍示ケ崎遺跡では、道幅5メートル以上(青谷上寺遺跡と青谷横木遺跡を結ぶ線上にある)

因幡の古代山陰道 高圧縮.pdf (tottori.lg.jp)

③ー3 青谷横木遺跡

2万点以上の大量の木製祭祀器具が出土した。


古代山陰道発掘成果調査/とりネット/鳥取県公式サイト (tottori.lg.jp)

③ー4 隠岐の国駅鈴

 玉若酢命神社社家億岐家に伝わるもので、奈良時代に始まった駅伝制で使用された鈴です。隠岐国の駅制については、資料が少なく不明な点が多くありますが、水上交通の駅はあったようです。

 現在伝えられている二つの駅鈴は、国内唯一の存在例といわれています。昭和10年に国の考古資料に指定されました。

所在地種 別寸 法指定年月日
隠岐の島町 下西考古資料幅約5.5cm、奥行約5.0cm、高さ約6.5cm1935.4.30


1 報告①因幡の国古代山陰道

2 
報告2 因幡・伯耆における古代山陰道研究最前線(坂本嘉和) (youtube.com)

⑤ー1山陽道ルート 広島県府中市鳥居地区で山陽道の道幅は約12メートル

(木本雅康「西日本の交通・官衙と景観ー国府の朱雀大路と十字街」『日本古代の道路と景観』八木書店、2017年、400頁)









国土交通省HPから転載(道路:道の歴史:古代の道 - 国土交通省 (mlit.go.jp)  2024年1月20日アクセス)


内田保之『尼子西遺跡2』(ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書2)滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会、 1998年 


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