2024年3月30日土曜日

天平相撲、平城京場所(仮称)2024年1月2日版+補訂

 正倉院所蔵の『周防国正税帳』天平10年(738)6月条に、相撲に関する記事がある。

「6月20日条:長門国相撲人3人

6月21日条:周防国相撲人3人 」(『『大日本古文書』2-131頁)

とある。平城京へ向かう6人であるが、いずれも相撲取りとある。

 時は1年遡るけれども、天平5年の越前国郡稲帳に

「向京当国相撲人参人経弐箇日食料、稲弐束四把、塩壱号弐夕、酒壱升(人別日稲四)」(『大日本古文書』1-463頁)

とある。東西から選抜された、腕っぷしの強い力自慢の者たちが平城京での相撲大会に出場したにちがいない。

どうやら各国から3名ずつ相撲取り(「相撲人」)が平城京へ派遣されたが、全国66か国(『延喜式』)すべてから毎年相撲取り3名が京に派遣されたとは考え難い。

ところで『延喜式』巻24主計上では、

*長門国(上廿一日、下十一日)

*周防国(上十九日、下十日)

とあり、平城京場所の具体像は不明であるが、相撲本来が神事であったと考えられるので、平城京で挙行された儀式に参加する力士であったらしい。

自然に連想するのは『続日本紀』天平10年(738)7月癸酉(7日)の


秋七月、丁卯朔癸酉,天皇御大藏省、覽相撲。晚頭、轉御西池宮。因指殿前梅樹、敕右衛士督下道朝臣真備及諸才子曰、人皆有志、所好不同。朕去春欲翫此樹、而未及賞翫、花葉■(サンズイ+遽)落、意甚惜焉。宜、各賦春意、詠此梅樹。」

の記事である。これによって、7月7日、七夕の日に天皇の前で相撲する「天覧相撲」に参加するために、長門国・周防国から各3人の相撲取りが派遣されたtと考えるのが妥当だろう。
 この平城京場所に関しては、『続日本紀』天平6年7月丙寅(7日)の記事、
「天皇観相撲戯」
は見逃せない。これらの記事によって、平城京において、しかも天覧相撲大会が開催され、その時期は7月7日の七夕節であったと断じてよい。

重ね合わせて思い浮かべるのは、『続日本紀』神亀5年(728)4月辛卯(25日)条に

辛卯、敕曰、如聞、『諸國郡司等,部下有騎射、相撲及膂力者、輙給王公、卿相之宅』、有詔搜索、無人可進。自今以後,不得更然。若有違者、國司追奪位記、仍解見任。郡司先加決罰、准敕解卻。其誂求者、以違敕罪罪之。但先充帳內、資人者、不在此限。凡如此色人等、國郡預知、存意簡點、臨敕至日、即時貢進。宜告內外咸使知聞。」

とある記事である。これによると、各国の国司および郡司に命じて「騎射・相撲・膂力者(「凡そ此の如き色の人達」)を天皇に進上せよとある。先の『周防国正税帳』の記事は、この勅命に即応した相撲取りの派遣であったと考えてよいだろう。


 では、相撲取りの名(しこ名)は判明しないだろうか。管見の限りでは、「出雲国計会帳」断簡に見る、

「廿三日進上相撲蝮部臣真嶋等弐人事」(続・修 35-6)

とある記事を思い起こす。この一連の断簡が天平6年代であったと推定されることから、これは天平6年の5月もしくは6月の23日に進上されたと想定しての不自然ではないだろう。上記の周防国・長門国の事例から判断すれば、天平6年6月であったと推定する。

彼ら相撲取りを平城京へ引率するのが、「相撲部領使」(万葉集864番歌)であったのは周知の事実。

そして万葉集886番歌にみる

「大伴君熊凝は、肥後国益城郡の人なり。年18歳にして、天平3年6月17日に、相撲使某国試官位姓名の従人と為り、京都に参向ふ」

とある「相撲使」も「相撲部領使」(万葉集864番歌)と同一であろう。なお、従人とある大伴君熊凝も相撲人であると推定してよい。ちなみに、肥後国からの場合、

*肥後国府から大宰府まで「上三日、下一日半」であり、大宰府から京まで「上廿七日、下十四日」(『延喜式』)

であった。通例の日数から推測して、大伴君熊凝の場合、6月17日に出発しているので、7月7日の相撲大会に出場するためには、そうとう強行軍の上京であったにちがいない。さらには肥後国内において相撲取りの選抜に手間取り、上京の日が切迫しただろう。

 これら諸国から進上された七夕節の相撲大会を主管し、相撲取りを管理する役所が必要となるが、定説通りに、『続日本紀』養老3年7月辛卯(4日)条にある、

「秋7月辛卯、初めて抜出司を置く」

の「抜出司」を想定したい。

 次の平城京出土の墨書土器の例は、近江昌司の教示によるが、

「昭和58年来3次にわたって発掘調査を施工された平城左京2条2坊12坪には、坪の中心に正面廂の正殿建築があり、周囲に廻廊をめぐらし、南面中央に門を開くという宮殿形式の建築配置を認めた」(「背奈福信と相撲」『古代史論集』中、塙書房、1988年、158頁)

の場所から、「左相撲」、「相撲所」を墨書した土器が発掘されたと紹介する。その典拠である奈良市教育委員会編『平城京左京二条二坊十二坪 奈良市水道局庁合建設地 発掘調査概要報告 』によると、奈良市法華寺町266番 地の 1他 の地より出土した土器の中に、

*「相撲所」(土器番号54「相□(撲カ)所」、88「相撲所」)

*「左相撲」(土器番号89「左相□(撲カ)」

(前記書、36-37頁)

とある。どうやらこの平城左京2条2坊12坪付近に「相撲所」(相撲部屋)が存在した可能性を指摘しておきたい。


なお、次の木簡も相撲に関係するが、この人物も平城京場所に出場したかもしれない。出土場所が「平城京式部省東方」とあり、相撲会場とは無関係である。「木善佐美」は「しこ名」かとも思えるが、私案では名前と解したい。後考を俟つ。なお、想像するに、この人物は甲斐国から進上された相撲取りであったかもしれないが、史料的限界のために、その明証はない。

 なお、平城相撲場所が終わり、各国から派遣された相撲取りは帰国しただろうが、一部の相撲取りは

『諸國郡司等,部下有騎射、相撲及膂力者、輙給王公、卿相之宅』」(『続日本紀』神亀5年(728)4月辛卯(25日)条)

とあるように,その体形を生かして、高級官人のガードマンなどに採用されたらしい。

 識者は高倉朝臣福信の事例(『続日本紀』延暦8年10月乙酉条など)を取り上げない筆者の無知をお攻めになるだろうが、これに関しては別記したい。。なお、その記事では、朝鮮半島から流入した高句麗式相撲に類するスタイルであったと予告しておきたい。


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAIBN14000111
木簡番号0
本文・甲斐○□□ε(二人の人物画)・【千□】○木善佐美\○人国国\○忍○乃止国○未年ε(相撲絵)
寸法(mm)(209)
47
厚さ4
型式番号065
出典木研20-17頁-1(98)(城34-20下(214))
文字説明 
形状上欠(折れ)、下欠(折れ)、左削り、右削り。
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮式部省東方・東面大垣東一坊大路西側溝
所在地奈良県奈良市佐紀町・法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数274
遺構番号SD4951
地区名6AAIBN14
内容分類文書?・習書
国郡郷里 
人名木善佐美
和暦 
西暦 
木簡説明 

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