2024年3月23日土曜日

宝亀2年、渤海国使壱萬福ら350人と「北方海上通商ネットワーク」

 『続日本紀』宝亀2年(771)2月壬午条に、よく知られている記事の一つである

壬午,渤海國使-青綬大夫-壹萬福等三百廿五人、駕船十七隻、著出羽國賊地野代湊。於常陸國安置供給」

がある

 ここで筆者が関心を持つのは、なぜ渤海国使が「出羽国」に、しかも「賊地野代」に到着したのかという点である。

この「野代」とは現在の能代市付近であり、「野代湊」は米代川河口に位置する「能代港」であると推定して大過ないだろう。この能代港の初見は、『日本書紀』斉明天皇紀4年(658)4年条に

四年春正月甲申朔丙申、左大臣巨勢德太臣薨。夏四月、阿陪臣闕名率船師一百八十艘伐蝦夷、齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降。於是、勒軍陳船於齶田浦、齶田蝦夷恩荷進而誓曰、不爲官軍故持弓矢、但奴等性食肉故持。若爲官軍以儲弓失、齶田浦神知矣。將淸白心仕官朝矣。」仍授恩荷以小乙上、定渟代・津輕二郡々領。遂於有間濱、召聚渡嶋蝦夷等、大饗而歸」

とある渟代」も、通説ではこの「能代」であると比定する。私も異論はない。その当時、能代に居住していたのが蝦夷であり、彼らが阿倍比羅夫の大軍に恐れをなし、「降伏」したのも史実であろう。

 その阿倍比羅夫らが上陸した後、能代周辺に蝦夷系住民が引き続き居住し、先の『続日本紀』宝亀2年の記事にある時代に至っても、それは非蝦夷系住民よりも蝦夷系住民数が優越していたことを物語る。

したがって、

出羽國賊地野代湊

とある記事に見る「賊地」とは、中央政府に敵対する蝦夷が占有する「賊地」ではなく、非蝦夷系住民も居住するものの、蝦夷系住民が主に居住する地域であると解しても良いではないだろうか。その傍証となるのが、元慶2年(878)に勃発した戦乱、俗にいう「元慶の乱」を記録した『日本三代実録』同年七月十日癸卯条に、

「秋田城下賊地者,上津野・火内・榲淵・野代・河北・腋本・方口・大 河・堤・姉刀・方上・焼岡十二村也」

とあることによっても判明するだろう。

能代湊周辺に、蝦夷系住民と共に非蝦夷系住民が混住していたからこそ、渤海国使が到着した情報も秋田城を経由して中央政府に届き、ましてや出羽国野代湊から常陸国へと移送する手続きも可能となったはずである。

 それでも、なぜ、能代湊かという疑問は解けない。

それを解くカギは、次の二つの記事にあると考えている。その一つは、延暦6年(787)官 符に

 「太政官符  応下陸奥按察使禁中断王臣・百姓与夷俘交関上事 右被右大臣宣䆑,奉勅,如聞,王臣及国司等争買狄馬及俘奴婢。所以,犬羊之徒,苟貪 利潤,略良窃馬,相賊日深。加以,無知百姓,不畏憲章,売此国家之貨,買彼夷俘 之物。綿既着賊襖冑,鉄亦造敵農器。於理商量,為害極深。自今以後,宜厳禁断。 如有王臣及国司違犯此制者,物即没官,仍注名申上。其百姓者,依故按察使従三位大 野朝臣東人制法,随事推決。  延暦六年正月廿一日」

の記事であり、もう一つは、『類聚三代格』」巻19、延暦21年(802)の太政官符に

「 太政官符  禁断私交易狄土物事、 右被右大臣宣䆑,渡嶋狄等来朝之日,所貢方物、例以雑皮。而王臣諸家競買好皮,所残悪物以擬進官。仍先下符禁制已久。而出羽国司寛縦曾不遵奉。為吏之道豈合如此。 自今以後,厳加禁断。如違此制,必処重科。事縁勅語。不得重犯。    延暦廿一年六月廿四日」

とある記事である。この記事に見る「夷俘交関」や「私交易狄土物事」はすでに蓑島栄紀らの注目するところであり(蓑島栄紀「古代出羽 地方の対北方交流―秋田城と渡嶋津軽津司の史的特質を めぐって―」『古代国家と北方社会』吉川弘文館,2001 年。初出は 1995 年)、筆者もその専論に全面的に依拠している。

しかもさらに注目すべきは、熊谷公男氏の説である

北方日本海地域ネットワーク」とは,秋田・能代・津軽などの本州北部日本海側の諸地域と北海道の渡島半島(日本海側)・石狩低地帯北半部の諸地域との間に形成された,ヒトやモノの交流を中心とした海路による地域間ネットワーク」(熊谷公男「秋田城の成立・展開とその特質」『国立歴史民俗博物館研究報告』第 179 集、2013 年 11 月、231頁)

であり、

「その背後には北方日本海地域における蝦夷諸集団,粛慎(アシハセ),さらには大陸の渤海およびその支配下の靺鞨諸集団に まで達する海路のネットワークが存在していた。」(同上書、232頁)

である。

 すでにお察しの通り、私は秋田能代湊の蝦夷系住民を媒介として、北海道の渡島半島の蝦夷系住民を経て、粛慎・渤海・靺鞨諸集団を結ぶ「北方海上通商ネットワーク」の基盤の上に、渤海国使は秋田野代湊を目指したと考えたい。かって筆者が学んだ時期の流説である「渤海国使、漂着説」はもはや成立しないと考える。

 なお、この渤海国使来日ルートに関しては、新野直吉・古畑徹氏らが提唱する北回り航路(渤海―沿海州―樺太―北海道 ―出羽)を通って来たという説が、まさに本稿でいう「北方海上通商ネットワーク」に該当する。

時代は下るが、江戸時代に長崎ルートではなく、北海道松前藩経由で「蝦夷錦」が流入するルート「松前口」とほぼ同一である。

なお江戸時代における「松前口」ルートの通商に関する専論を発表した。


 






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