『延喜式』(延喜5年<905>)には、周知のとおり、大宰府に
*大唐通詞四人、新羅訳語三人
が配置されていたとある。
ところで、『三代実録』巻21、貞観14年5月条に、
「廿二日辛夘。聽諸市人与客徒私相市易。是日。官錢册万賜渤海國使等。乃喚集市廛人。賣与客徒此間土物。以前筑後少目從七位上伊勢朝臣興房。爲領歸・客使通事」
とあり、また、
『三代実録』 元慶七年正月戊辰朔条
「戊辰朔。天皇不受朝賀。雨也。七曜歷・藏氷樣・腹赤魚等。所司付内侍奏。御紫宸殿。宴於侍臣。雅樂寮奏音樂。宴竟賜被。是日。以正六位上行少外記大藏伊美吉善行。式部少抹高階眞人茂範。爲存問渤海客使。前筑後少目從八位上伊勢朝臣興房爲通事。」
とある。
ここでの関心は、通詞の前筑後少目從八位上伊勢朝臣興房が渤海客使との間で、何語でコミュニケーションを取ったのかである。
確実な資料を提示できないものの、総合的に考えて伊勢朝臣興房が渤海語で会話を交わしたとは考えがたい。
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