大宰府政庁跡西側に蔵司という地名を持つ場所がある。その名の通り、その場所は大宰府の倉庫であった。
九州歴史資料館の説明によると、
*「九州各地から税として納められた 特産品や布を管理」する場所
であったという。
令和元年度「特別 史跡 『大宰府 跡 』・蔵 司 地区の調査成果 ~大宰府史跡第236・245・246次調査~」の発掘調査報告によると、その場所に6棟の倉庫群が建てられていたとある(平成25年10月26日(土)現地説明会資料 (kyureki.jp)。
九州歴史資料館の担当者たちは、令和元年から令和3年に至る発掘報告では慎重に言を避けているが、上記の「九州各地から税として納められた 特産品や布」の保管庫だけでなく、
1、「法倉」
2,「頴倉」
も視野に入れても、遺跡調査に従事しても良いかもしれない。
特にこの二つの倉は大宰府にとって重要であったのは、「法倉」が権威を、「頴倉」が出挙に係る頴稲を収納する倉であり、出挙による利益こそ大宰府の財源であったからである。
なお、大宰府としては、「蔵司」地区で発掘された6棟の倉庫群だけでは少ないように感じる。それを確定する考古学的検出を俟たなくてはならないが、大宰府規模であれば、少なくとも10棟以上存在してもおかしくない。
ところで、倉庫機能であると理解して誤りはないが、単に租庸調の貢納品だけが収蔵されていたのではない。大宰府の場合、
『続日本紀』神護景雲3年11月条に、
「 甲辰
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