2023年12月6日水曜日

東大寺大仏制作に従事した銅工 宗形石麻呂

今でこそ、「宗像市」・「宗像神社」に代表されるので、「ムナカタ」の表記は「宗像」だと思い込みがちである。

しかしその表記が定まったのは後世である。古代には、一般的に「宗形」とも書き表された。

「太宰帥宅牒 東大寺造司

銅工宗形石麻呂 上日卅

牒、件人十二月上日勘注、申送如前、以牒

 天平宝字7年12月卅日

知宅事大師家職今資人高来造広人」(484頁)

この記事で最も注目したいのは、東大寺造司から天平宝字7年(763)時点の太宰帥であった藤原朝臣真先宅へ銅工の宗形石麻呂が派遣されていた事実と、そして宗形石麻呂の同年12月の上日(出勤日数)が30日であったと分かる。ほぼ皆勤である。

日本高僧伝要文抄』所収の「延暦僧録」(思託、延暦7年・788年) に 

「銅2万3千7百18斤11両、自 勝宝2年正月迄7歳 正 月、奉 鋳 加所用也 」

(著者注:当時の1斥は180匁で675g)

 とあ るように、こ の鋳かけに5年の 歳 月と約16ト ンの銅を費 してい る。

ところで、東大寺大仏鋳造に用いられた銅の大半は長門国長登銅山で採掘されたことはすでに周知のとおりである。

さて、1989年に京都府大山崎町の「山崎院跡」から出土した銅のインゴットは注目される。最大で22.5㎝、重さ2680グラムの円錐形銅地金6枚である。大山先町教育委員会と奈良文化財研究所の調査によると、この6枚のインゴットは山口県長登銅山産であり、鉛同体比の分布が奈良の東大寺大仏鋳造に使われた銅と同一であるという。

 そもそも山崎院といえば、東大寺大仏制作に大きな貢献をした僧行基が建立した。したがって、東大寺大仏完成後、余った銅の一部が山崎院に分与されたと大山崎町教育委員会は推定する。

 想像の域を超えないが、陸路で長門国長登銅山から奈良の東大寺へ運搬されたときには、このような「精錬」状態であった。つまり、長登銅山は銅を発掘し、銅鉱石から「製錬」をし、それを銅のインゴット状にして、東大寺に輸送していた。銅製品などを加工するためには、さらに「精錬」するプロセスが必要である。それでは「銅工」宗形石麻呂らが銅製品に加工していた場所は、東大寺内のどこであっただろうか。

 奈良文化財研究所による、東大寺9812区SX02,および 9813区SK01 の二つの遺構の発掘結果から考えて、9812区から炭化物や青銅精錬作業の廃棄物が、そして9813区から洗い銅などの金属選別作業時の廃棄土や出土品の中に連弁状の青銅製品発掘されている。

この指摘から推測して、発掘担当者の平松義雄氏は、

「土器の年代からみれば、東大寺創建期に構築 、廃絶されたものばかりである。このエリアには 堀池春峰氏の指摘のとおり 、造東大寺司鋳所の現業部門が設置されていた蓋然性が高いといえよう」(https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/9047/1/AN00396860_24_010_013.pdf)

と報告している。この東大寺9812区SX02,および 9813区SK01 の両区を含めた一帯で、東大寺司鋳所の現業部門の一人のスタッフである宗形石麻呂が動き回っていた可能性を提出しておきたい。


さて、なぜ、筑前国宗形を離れて、宗形氏が平城京の東大寺造仏制作のために銅工として働いたのであろうか。この時に、全国から青銅精錬作業経験者を招集しただろうが、宗形氏と青銅精錬との関係はどこにあったと考えればよいだろうか。

 想像の域を超えないが、「■(匈+月)形箭」を想起する。

『続日本紀』天平宝字5年7月の条に、

秋七月甲申,西海道巡察使-武部少輔-從五位下-紀朝臣-牛養等言:「戎器之設,諸國所同。今西海諸國,不造年料器仗。既曰邊要,當備不虞。」於是,仰筑前、筑後、肥前、肥後、豐前、豐後、日向等國,造備甲刀弓箭,各有數。每年送其樣於大宰府。」

とあり、大宰府管内の諸国で兵器が製造されることとなり、その「様(ためし、サンプル)」が大宰府に送付された。天平8年(736)の「薩摩国正税帳」には、

「運府兵器料鹿皮担夫

とあり、大宰府に刀剣の柄に使用する鹿皮が運搬された。

このことからしても、大宰府管内でも兵器が製造されていたことは間違いなく、その一つが「■(匈+月)形箭」であると想像する。


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通説の通り、東大寺大仏は、百済からの渡来人国骨富の孫である国中真麻呂を大仏師とし、大鋳師高市真国、高市真麻呂ら技術者など、延べ42万3,000余人、役夫(雑役)218万人を使って、大仏本体の鋳造に3年、らぼつの鋳造と組立てに2年、仕上げと塗金に6年、計11年の歳月を費して完成した。

『続日本紀』天平宝亀5年10月条に、

冬十月,丁卯朔己巳,散位-從四位下-國中連-公麻呂,卒。本是百濟國人也。其祖父-德率-國骨富,近江朝庭歲次癸亥屬本蕃喪亂歸化。天平年中,聖武皇帝發弘願,造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工,無敢加手者。公麻呂頗有巧思,竟成其功。以勞遂授四位。官至造東大寺次官兼但馬員外介。寶字二年,以居大和國葛下郡國中村,因地命氏焉。」

とある通りである。

銅加工の専門職業集団の集まりである東京都鍍金工業組合

 (東京都文京区湯島1-11-10)のホームページによると、

めっきの歴史 奈良の大仏と表面処理 (tmk.or.jp)

次に鋳凌いといって、鋳放しの表面を平滑にするため、ヤスリやタガネを用いて凹凸、とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し、彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し、さらにト石でみがき上げている。台座の蓮弁に残された有名な「蓮華蔵世界」の彫刻も、この時作られたものである。

 鋳放しの表面をト石でみがき上げてから、この表面に塗金が行なわれたが、大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるように、鋳かけ、鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれた。

 これに用いた材料について延暦僧録には、「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖、右具奉「塗御体如件」とあるが、これは金4,187両を水銀に溶かし、 アマルガムとしたもの2万5,224両を仏体に塗ったと回読している。

 すなわち,金と水銀を1:5の比率で混合してアマルガムとし、これを塗って加熱し、塗金を完了するのに5年の歳月を要している。

 これは第1に、鋳放し表面を塗金できるまで平滑にすること、第2に塗金後の加熱を十分慎重に行なわなければ、加熱時に発生する水銀の蒸気は非常に有毒なので、すでに751年、大仏殿の建造も終っている状況では、殿内は水銀蒸気が充満し、作業者にとって非常に危険な状態だったのであろう。

 大仏の鋳造は749年に完成し、その後に金メッキが行なわれ752年、孝謙天皇の天平勝宝4年に大仏開眼供養会が行なわれた。大仏の金メッキは、この開眼供養の後になされたが、アマルガムによる金メッキが行なわれはじめたときから、塗金の仕事をする人々にフシギな病気がはやりだした。この不思議な病気の原因は、まさに水銀中毒であった。

 蒸発する水銀をすうことが中毒であると真相をつきとめた大仏師国中公麻呂は、東大寺の良弁僧上とともに今日の毒ガスマスクを工夫して、病気の発生を予防したとのことである。科学技術の進歩は公害が付きもので、これを克服していかなければ人類の進歩はない。すでに8世紀における大仏建造で、水銀アマルガム鍍金の公害が発生したが、人類の恵知はこれを克服している。」


なおちなみに


藤原朝臣真先
(もしくは光)
天平宝字6年12月1日(762年12月20日)任
*藤原仲麻呂の男子。
「《天平宝字六年(七六二)十二月乙巳朔》
○十二月乙巳朔。授従四位上藤原恵美朝臣真光正四位上。
以御史大夫正三位文室真人浄三為兼神祇伯。従三位氷上真人塩焼。
従三位諱。従三位藤原朝臣真楯為中納言。真楯為兼信部卿。
正四位上藤原恵美朝臣真光為大宰帥。


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参考資料

『東大寺要録』本願章第一所引『延暦僧録』勝宝感神聖武皇帝菩薩伝

延暦僧録文

勝宝感神聖武皇帝菩薩伝 〈以御願文十二月二日〉

法名勝滿。在奈良朝庭御宇。

(中略)

又発使入唐。使至長安。拝朝不払塵。唐主開元天地大宝聖武応道皇帝云。彼国有賢主君。観其使臣趍揖有異。即加号日本為有義礼儀君子之国。復元日拝朝賀正。勅命日本使可於新羅使之上。勅命朝衡領日本使。於府庫一切処遍宥。至彼披三教殿。初礼君主教殿。御座如常荘飾。九経三史。架別積載厨龕。次至御披老君之教堂。閣少高顕。御座荘厳少勝。厨別龕函盈満四子太玄。後至御披釈典殿宇。顕教厳麗殊絶。龕函皆以雑厠填。檀沈異香荘校御座。高広倍勝於前。以雑宝而為燭台。々下有巨鼇。載以蓬莱山。上列仙宮霊宇載宝樹地。𢜈々紅頗梨宝荘飾樹花中。一々花中各有一宝珠。地皆砌以文玉。其殿諸雑木尽鈷沇香。御座及案経架宝荘飾尽諸工巧。皇帝又勅。摸取有義礼儀君子使臣大使副使影。於蕃蔵中以記送遣。大使藤原清河。拝特進。副使大伴宿弥胡万。拝銀青光禄大夫光禄卿。副使吉備朝臣真備。拝銀青光禄大夫秘書監及衛尉卿。朝衡等致設也。

開元皇帝御製詩。送日本使〈五言〉

日下非殊俗。天中嘉会朝。

朝爾懐義遠。矜爾畏途遥。

漲海寛秋月。帰帆駛夕颷。

因声彼君子。王化遠昭々。

特差鴻臚大卿蒋挑捥送至揚洲看取。発別牒淮南。勅処致使魏方進。如法供給送遣。其大使私請揚洲竜興寺鑒真和上等渡海。将伝戒律。自勝宝六年二月四日至聖朝。勅安置東大寺。即其年四月。勝宝感神聖武皇帝。於盧舎那仏前。天皇菩薩請鑒真和上。登壇受菩薩戒。皇太后皇太子並随天皇受菩薩戒。後為沙弥澄修等受戒。此及伝戒事円。至其年五月。大和上衆僧。即貢如来舎利二千粒。西国瑠璃瓶盛念珠菩提子三斗。青蓮花葉二十茎。珉海畳子八面。玉環水精幡八条。王右軍真跡行書一帖。小王献之真跡行書三帖。少僧都良弁及佐伯今毛人共進内。斯実希代勝貺。前王罕逢。其僧法進即伝道宣律師行事抄六巻。大胝弥迦蔵本。又沙門法励。嵩岳鎮国道場義記三本。助天皇菩薩之揚化。聖武皇帝宜膺帝録。天受雄図。徳副乾坤。明均日月。化家為国。志康雷雨之長。翼聖承天。果就経論之業。六竜感御。八表惟寧。握鏡垂仁。懸大明而下燭。凝流拱代夢花胥而上昇。万徳長綿莫攀雲駕。百神幽賛永隔軒台。天平仁政皇后。克纂洪福。丕垂耿光。翹叡心於仏乗。申景福於仙鶴。創茲金地。而未畢功。克日就功。忌辰赴慶。莫我烈聖憑斯正因。妙業増暉。開化蓮於浄国。玄珠契道。獲大宝於春池。裕不尽之威霊。垂無之福祐。勝宝八歳々次丙申五月二日。崩於平城宮矣。〈巳上僧録文〉

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