『続日本紀』では、天平12年の藤原広嗣挙兵が好個の資料となる。
8月癸未【29日),大宰少貳-從五位下-藤原朝臣-廣嗣上表,指時政之得失,陳天地之災異。因以除僧正-玄昉法師、右衛士督-從五位上-下道朝臣-真備為言。其上表文,言玄昉、真備為姦雄之客,覆國之人云云,具在『松浦廟宮先祖次第併本緣起』。然近世以來,有偽書之疑。下道真備,後改吉備真倍。
九月,乙酉朔丁亥【3日),廣嗣遂起兵反。
敕,以從四位上-大野朝臣-東人,為大將軍。從五位上-紀朝臣-飯麻呂,為副將軍。軍監、軍曹,各四人。徵發東海、東山、山陰、山陽、南海五道軍一萬七千人,委東人等,持節討之。
この記事を忠実に読めば、8月29日に挙兵が在り、翌月3日付けで鎮圧軍を大宰府へ送る手はずが整ったとある。
この電光石火のごとき朝廷の対策は、大宰府からの情報の速さの結果であるが、はたして事実であろうか。
さて、これが実現するためには、次のような条件が求められるだろう。
1,大宰府から北九州の港、もしくは豊前国府までの陸路、そして平城京までの海路の整備
2,瀬戸内海を3日で航行するスピードの速い船と迅速な船員確保、そして食料・水積載
もっとも養老4年(720)の大隅国守殺害事件も視野に入れておきたい。
2月壬子【29日),大宰府奏言:「隼人反,殺大隅國守-陽侯史-麻呂。」 3月,癸丑朔丙辰(4日),以中納言-正四位下-大伴宿禰-旅人,為征隼人持節大將軍。授刀助-從五位下-笠朝臣-御室,民部少輔-從五位下-巨勢朝臣-真人,為副將軍。 ちなみに、海路ではなく、陸路で大宰府から平城京まで駆け抜けたとすれば、片道640キロメートルを4日間で疾走したことになる。 *大宰府-平安京間の駅数及び距離 西海道11駅(90km)+山陽道49駅(約550km)の60駅(640km) <延喜式』兵部省諸国駅伝 馬条記載> 上村俊洋氏が論じるように、 「やや乱暴ではあるが,平城京周辺の駅名・官道等が不明 な平城京期も同等の駅数・距離を,大宰府-平城京間に仮定した場合,広嗣の上表文を携えた使者 は,60駅を4日間で移動し,1日当たり15駅(約158.3km)を走破したことになる。」(上村俊洋「南九州の古道について 〜菱刈郡・大水駅を中心に」(4頁、) (6757_20220518104920-1.pdf (pref.kagoshima.jp) とも推定できる。 確かに現代のマラソンランナーが640キロメートルを駆け抜ければ、42.195キロメールを3時間を要する走者は15人で、45時間で到着できる。 そのためには、走路がほぼ平坦であることは不可欠である。そしてすべての河に橋がかけてなくてはならない。前日までの豪雨で川の水笠が増して渡河できない状態にあるなどはもってのほかである。 しかも各駅ごとに、大宰府版走ろメロスのようなrunnerが待機していなければならない。はたして可能だろうか。 なお、『延喜式』(巻24,主計上)では、大宰府から平安京まで海路で30日を要したとある。 奈良時代版「ドラえもんのどこでもドアー」が開発されていたのか。 |
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