2023年11月18日土曜日

1古青木和夫先生への問いー大宰府から平城京へ所要した日数

生前、青木先生にお目にかかる機会は僅かであったが、青木先生の第1高等学校時代の恩師である五味智英先生のお導きであった。当然ながら、若輩者の私は路傍の石柱のように佇んでいるばかりであった。

 さて本稿を検討するに必読の論文は、下記の通りである。

①坂本太郎『上代駅制の研究』 (『坂本太郎著作集』第8巻、「 古代の駅と道」吉川弘文館、1989年

②田名網宏『古代の交通』

③田中卓『神宮の創始と発展』263頁

④直木孝次郎「大宰府・平城間の日程」『奈良時代史の諸問題』塙書房、1968年

⑤青木和夫「駅制雑考」『日本律令国家論攷』岩波書店、1992年、114-133頁


『続日本紀』では、天平12年の藤原広嗣挙兵が好個の資料となる。

8月癸未【29日),大宰少貳-從五位下-藤原朝臣-廣嗣上表,指時政之得失,陳天地之災異。因以除僧正-玄昉法師、右衛士督-從五位上-下道朝臣-真備為言。其上表文,言玄昉、真備為姦雄之客,覆國之人云云,具在『松浦廟宮先祖次第併本緣起』。然近世以來,有偽書之疑。下道真備,後改吉備真倍。
九月,乙酉朔丁亥【3日),廣嗣遂起兵反。
 敕,以從四位上-大野朝臣-東人,為大將軍。從五位上-紀朝臣-飯麻呂,為副將軍。軍監、軍曹,各四人。徵發東海、東山、山
陰、山陽、南海五道軍一萬七千人,委東人等,持節討之。


この記事を忠実に読めば、8月29日に挙兵が在り、翌月3日付けで鎮圧軍を大宰府へ送る手はずが整ったとある。

この電光石火のごとき朝廷の対策は、大宰府からの情報の速さの結果であるが、はたして事実であろうか。この点に関する先行研究では、例えば坂本先生・直木先生・青木先生などはほぼ事実であると論じられてきた。

私が青木先生にお伺いしたいのは、制度(「事速者一日10駅以上」<公式令>)ではなく、だれが、どのような経路で、どのような道路整備もしくは海路整備で、いかにして情報伝達が可能であったかを考察したい。

さて、これが実現するためには、次のような条件が求められるだろう。

<海路であれば、>

1,大宰府から北九州の港、もしくは豊前国府までの陸路、そして平城京までの海路よび港湾施設の整備

2,瀬戸内海を3日で航行するスピードの速い船舶と迅速な船員確保、そして食料・水積載

3,難波津から平城京までの古代官道と駅家の整備ー1日

4,加えて、瀬戸内海を航行するに順風と穏やかな波など天候条件

<陸路であれば>

海路ではなく、陸路で大宰府から平城京まで駆け抜けたとすれば、片道640キロメートルを4日間で疾走したことになる。

*大宰府-平安京間の駅数及び距離
西海道11駅(90km)+山陽道49駅(約550km)の60駅(640km
延喜式』兵部省諸国駅伝 馬条記載>

上村俊洋氏が論じるように、
「やや乱暴ではあるが,平城京周辺の駅名・官道等が不明 な平城京期も同等の駅数・距離を,大宰府-平城京間に仮定した場合,広嗣の上表文を携えた使者 は,60駅を4日間で移動し,1日当たり15駅(約158.3km)を走破したことになる。」(上村俊洋「南九州の古道について 〜菱刈郡・大水駅を中心に」(4頁、) (6757_20220518104920-1.pdf (pref.kagoshima.jp) 
とも推定できる。


 もっとも養老4年(720)の大隅国守殺害事件も視野に入れておきたい。

 2月壬子【29日),大宰府奏言:「隼人反,殺大隅國守-陽侯史-麻呂。」

3月,癸丑朔丙辰(4日),以中納言-正四位下-大伴宿禰-旅人,為征隼人持節大將軍。授刀助-從五位下-笠朝臣-御室,民部少輔-從五位下-巨勢朝臣-真人,為副將軍。


ちなみに、海路ではなく、陸路で大宰府から平城京まで駆け抜けたとすれば、片道640キロメートルを4日間で疾走したことになる。

*大宰府-平安京間の駅数及び距離
西海道11駅(90km)+山陽道49駅(約550km)の60駅(640km
延喜式』兵部省諸国駅伝 馬条記載>




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