2023年10月9日月曜日

エミシ蝦夷が大宰府の防人に

 大宰府市と関係があるのか不明であるが、「太宰府市日本遺産について「日本遺産」につい」には、防人に関して、

「遠い東国から九州へ辺境防備のため派遣された防人たちによる「防人の歌」

万葉集筑紫歌壇 | 日本遺産太宰府 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~ (dazaifu-japan-heritage.jp)

とある。たしかにこの定義を否定するつもりはないが、追加情報として、つぎのエミシ蝦夷も防人に動員されたことを付記しておきたい。

*『類聚国史』大同元年(806)10 月 3 日条 

「 勅。夷俘之徒、慕 化内属、居要害地 、足備不虞 。宜在近江国 夷俘六百卌人、遷 大宰府 、置為 防人 。毎国掾已上一人専-当其事 。駈使勘当勿 同 平民 。量 情随宜、不 忤 野心 。禄物・衣服・ 公粮・口田之類、不 問 男女 、依 前格 。但防人之粮、終□永給口分田 者、以 前防人乗田等 給 之。其去年所 置防人四百十一人皆宜停廃 。」

とある。この記事は、陸奥国から近江国へ連れてこられたエミシ「夷俘」600人を大宰府に移配し、「防人」として国土防衛の任に当たらせたとある。そして彼らエミシは生国に帰ることなく、大宰府で骨を埋めた。

九州在住の万葉研究者たちによる浪漫的な防人歌解釈は再考する必要があると予告しておきたい。防人の実態を知らないものによる和歌鑑賞の限界を見るからである。別稿で、私論を発表するつもりである。

今、防人の基礎的理解に関しては、当面は、曾我部静雄著の先駆的論文「<研究ノート>東国出身の防人達 - Kyoto U」に基本的に依拠したい。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249559/1/shirin_044_2_289.pdf



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