1豊前国
『類聚国史』天長 5 年(828)閏 3 月 10 日条
「 豊前国俘囚吉弥候部衣良由、輸酒食百姓三百六十人 。豊後国俘囚吉弥候部良佐閉、輸 稲 九百六十四束 、資 百姓三百廿七人 。衣良由叙 少初位下 、良佐閉叙 従六位上 。
⇒「俘囚」とは蝦夷の別称。
2,肥前国
『類聚国史』天長 5 年 7 月 13 日条
「 肥前国白丁吉弥候部奥家叙 少初位上 。奥家既染 皇風 、能順 教令 。志同 平民 、動赴 公役 。 修造官舎及池溝道橋等 、未有 懈倦 。加以国司入部之日、送迎有 礼、進退無 過。野心既忘、 善行可 嘉。
3,筑後国
『類聚国史』天長 10 年(833)2 月 20 日条
「筑後国夷第五等都和利別公阿比登叙従八位上 。輸 私稲 資 弊民也」
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今、「新・下野市風土記 下野市教育委員会 文化財課」で紹介に変えたい。
5df2ef10bb65a.pdf (shimotsuke.lg.jp)
*「当時の主な政策のひとつとして、対東北政策 がありました。 天 平神護元(765)年には、東北地方に居住 していた蝦 えみし 夷と呼ばれる人々のうち、朝廷側の 政策に恭順し、東国などに移り住んだ人たちに、 それまでの姓 かばね ではなく、新たな姓を与えました。 それまで吉弥候部きみこべの姓を名乗っていた人たちに、 新たに上 毛野公・下毛野公、物 部連の姓を名乗 ることを認めています。上毛野朝臣(上毛野国 国造一族)や下毛野朝臣(下毛野国造一族)、物 部朝臣(軍事に携わる一族)などが陸 奥国や出 で 羽 わのくに 国の平定に携わり、投降してきた蝦夷の人々 (俘 囚ふしよう)を直接受け入れたことから、これらの姓 が与えられたと考えられています。 なお、吉弥候部という姓は、もともとは君子 部と記していましたが、天平宝字元(757)年3 月に孝謙天皇が「これより後、君子部を改めて 吉弥候部と為せ」という詔を出したことで、表 記が変わりました。奈良時代には、何度かこの ような良い意味の文字を使用するように命令が 発布されました。和銅6(713)年5月には「諸国 郡郷名著好字令」という命令が出、全国の国 名を2文字にすることが決められたことにより、 これ以降、下毛野が下野へと変わりました。
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