2023年12月28日木曜日

上野誠著「万葉考古学」とは何か

 新学説の樹立は容易ではない。

欧米の学界では、たとえ「Culture Fashion」だと揶揄されようとも、常に目新しい学説、Theoryを求める研究風土にある。だから研究者間での競争は激しい。うかうか昼寝をしていることはできない。。

とはいえ、学説だと標榜する以上、一つの事象を科学的方法論で、妥当な資料を以て、だれが検証しようとも、同一な結論もしくは仮説に至る必要がある。

日本文学界においても、幾多の学説の興亡を知るだけに、どうしても自説へのこだわりが強く、客観性を欠く人文学では、ともすると学説などそもそも存在するかという議論さえある。

なるほど「万葉考古学」の定義は、同著に認める。

私の立場から申し上げれば、意気込みは良い。確かに伊藤博氏の注釈書『萬葉集釈注』(集英社、全10巻別巻3、1995年)以降、まったくレベルが低くなった万葉集研究にあって、その再興を果たしたいという上野氏の志は良し。

 新学説の主導者である上野誠氏の論文を拝見しても、面目を一新する研究成果が提示されているだろうか。「ここまでわかると、なぜ蘆城駅家、水城、夷守で万葉びとたちが送別宴を催したか、明らかにできるのである」〈109頁〉という。これを「万葉考古学」の精華だと誇示するが、それだけの貧弱な主張で万人を納得させる新学説樹立とは程遠い。

何よりも、諸氏の論文を拝見しても、一貫する分析視点で考察されているとは思えず、バラバラであり、はたして新学説だと自らがファンファーレを吹くほどの価値があると認定できない。鈴木喬氏の論文に至っては、「万葉びととの対話」を試みた結果〈42頁〉を報告しているが、それは新学説「万葉考古学」の分析視点を導入した考察とは思えない。むしろ従来の凡庸な枠組みに他ならない。

 すでに、奈良県立万葉文化館によって、「万葉古代学」とは

『万葉集』を中心とした総合的古代学。文学・歴史学・民俗学・宗教学・考古学などの隣接諸科学が有機的に連携しつつ、その研究領域と方法を越えて『万葉集』を広く古代文化の一環として位置付け、様々な角度からその総合的な価値を問うもの。

万葉古代学研究年報|奈良県立万葉文化館 (manyo.jp)


とあり、たとえ平凡であると言えど、その越境する学問的枠組みで万葉集を読み解けばよいのではないか。


あえて「万葉考古学」などと旗揚げするまでもない。何かの外部資金や受賞を目当てに立ち上げを狙ったのだろうか。そうでなければ、「羊頭狗肉」と嘲笑されかねないだろう。


一昔前の森浩一著『万葉集の考古学』がより刺激的であり、教わることが多い。


ただし、次のお三方の考古学者による分析は、凡庸な国文学者にない意欲的で、しかも斬新な解釈を提示する。


万葉の都、久邇・難波・紫香楽

  山田隆文(奈良県立橿原考古学研究所)

   


大宰府の内と外の万葉集

  小鹿野亮 (筑紫野市教育委員会)


大伴旅人が旅した松浦郡
  菅波正人 (福岡市埋蔵文化財課)


の三つの論は興味深い。一読をお勧めしたい。



なお、別稿で、論評をするつもりである。


ところで、忘れてならないが、


赤司善彦氏の高論「大伴旅人の館跡(太宰帥公邸)を探る」


こそが、「万葉考古学」の適切な先例である。





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話題は全く別であるが、我が知る万葉学者は畏敬の対象であった。

 まず先生の頭の中には万葉集全歌が格納されていた。万葉集中のどの句からでも、全句をそらで読み上げられた。

 しかも表記された一文字一文字の万葉仮名までも、先生の頭の中にインプットされていた。例えば,あの歌の「木」は「コ」と読み、あの歌では「キ」と読むとか。

 いわば万葉集のすべてを入力した、最先端の無数のCPUを搭載したスーパーコンピュータの万葉学者であった。

単に性能が高いだけでなく、先生の頭脳は多様な計算タスクに対応できるように設計されており、古代諸学に精通した異なるアプリケーションや計算ニーズに対応することができる柔軟性と拡張性をお持ちであった。

 今、先生のような研究スタイルは時代遅れかもしれない。インターネットでのデータベース検索やAIがあると反論されそうである。その信奉者に反論はない。

 だが私が敬愛してやまないのは、恩師の万葉集研究は「命がけ」であったことである。太平洋戦争中、1兵卒として徴兵され、銃火飛び交う戦地で、万葉集を読み続けた先生の執念に畏敬の念を持つ。

 生涯で先生の自著は一冊のみ。加えて、先生は数々の勲章などを辞退され、栄誉・栄達とは無縁であった。しかしわが師の論文は他の追随を許さぬものに仕上がっていた。

 先生と同様に、太平洋戦争中に過酷な体験をなさった河野六郎先生(中国音韻学および朝鮮語研究)、榎一雄先生(中央アジア史)も異口同音に、「俗に堕すな、学問に生きよ」の生き方を貫徹された。このお三方は旧制一高・東京帝国大学卒業で、ほぼ同年配であるという共通点を持つ。その上に、英独仏語は言うまでもなく、ラテン語・ギリシャ語などさまざまな外国語に精通されていた。いったいいくつの言語を習得なさったのか、私のような凡人の想定域を超えていた。学問の奥行きが大きく異なるからである。

 わが浅学菲才を恥じ入る次第である。

 





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