『続日本紀』宝亀3年(772)10月丁巳【10】条に、
○丁巳。大宰府言上。去年5月23日。豊後国速見郡二見郷。山崩填澗。水為不流。積十余日。忽決漂没百姓27人。被埋家二三区。詔免其調庸。加之賑給。
とある。この記事によると、宝亀2年(771)5月23日に豊後国速見郡二見郷に土石流が発生し、河川をせき止めた、10余日経過後、そのせき止められた水が激流となって下流に流れ、流域を水没させたとある。人的被害は27名、大宰府からの報告で「詔免其調庸。加之賑給。」とある。
豊後国速見郡二見郷とは、今の別府市でに属す。
さて、この大宰府発信の都への報告であるが、このように管内諸国の自然災害たるまで逐一朝廷へ報告していたことは興味深い。
しかしながら、なぜ、いまさらに前年の災害を1年半後に報告したのかは不明である。愚案なし。
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