万葉集と漁期とは一見して全く無縁である。しかし、だからこそ、数多い万葉集研究に活用されないままであった。
その主な理由は万葉集研究者の大半が「ロッキングチェア学派」であるからだ。
今、その一つとして、252番歌を取り上げたい。周知のとおり、この歌群は「柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首」と呼ぶ。
[題詞](柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首)
荒栲の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行くわれを
*藤江
集中に、藤江を探ると
(1)「やすみしし わが大君の 神ながら 高知らします 印南野の大海(「おふみ)、邑美」の原の 荒栲の藤井(藤江)の浦に 鮪(しび)釣ると 海人船散動き 塩焼くと 人そ多になる 浦 を良み 諾も釣はす 浜を良み 諾も塩焼く 在り通ひ 見さくもしるし 清き白浜」【938番歌、山部赤人】
とあり、「印南野の邑美の原の 荒砂の藤井(藤江)の浦に」に見る如く「白き海浜に作られた港津」であったらしい。その位置は不明であるが、明石市藤江字別所にある藤江別所遺跡付近を想定してよい。
「この遺跡は藤江川の河口から約300mさかのぼった、標高約1~2mと比較的低地に位置しています。このあたりまでは、海が入り込んでいたものと考えられています。」(参考文献:『明石市立文化博物館 1996 『明石市文化財調査報告2:明石市 藤江別所遺跡』明石市教育委員会 』)
とある。浦とあるので、「海・湖・池などの、湾曲して陸地に入り込んだ所」(岩波古語、193頁)であり、ここに鱸(鈴木)や鮪などを目当てとする海人たち漁民集団の居住地があったらしい。
この海人たちは、下記の2首にも描写されている。
(2)「沖つ波 辺波静けみ 漁(いざ)りすと 藤江乃浦に 船そ動ける」(939番歌、山部赤人)
(3)「白栲の藤江の浦に漁する海人とや見らむ旅行く 吾を」(3607番歌、遣新羅使)
*鱸(鈴木)
さて、ここで注目したいのは、漁期である。
兵庫県漁業協同組合連合会(兵庫県漁連)によると、現在の鱸漁は毎年5月から10月まで、そして鮪をサワラだと仮定すると9月から12月までの漁獲、そしてハマチだとすれば、その漁期は10月から12月だという(明石市に本所を置き、県下の沿海地区を中心に19ヶ所の事業所を有する兵庫県漁業協同組合連合会(兵庫県漁連)のHP、http://www.hggyoren.jf-net.ne.jp/Dictionary/Seto-Naikai-Winter.html)による。
すでに慧眼な方であれば、私の狙いを察知しておいでだろうが、「歌が詠まれた時期」の推測材料に注目する。
つまり、252番歌であれば、柿本人麻呂は5月から10月までの漁期に藤江の浦を通過したと推定できる。
そして938番歌であれば、山部赤人は10月から12月までの漁期に藤江の浦を通過したと推定してよい。
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