この土地売買証明書にある物件「調 邸 壹 町 在 左 京 八 条 三 坊」は、平城京東市場に隣接する超1級の商業・物流ビジネス地域である。
条坊制における 1町(1町=1×1町区画) は
1町 = 60丈 × 60丈、1丈 ≒ 1.818m(大尺)の正方形の区画であるので、
60×1.818=109.08
109.08 m×109.08 m≈11,900m2= 約1.19ヘクタール(0.0119 km²)
である。これを現代の坪数に換算するならば、
1ヘクタール=10,000㎡
1坪=約3.3058㎡
1.19 ha=11,900 ㎡
11,900㎡÷3.3058坪=約3600坪
しかもこの想定される土地(1町=約109m四方)には、外郭構造として
①周囲を築地・板塀などで囲う区画施設
②東または南側に正門(単門)を設ける配置
であっただろう。その区画の内部には、主要な機能として、調の保管と相模国人の宿泊施設、調の売買などを予想するので、
①倉庫群(棟数:複数棟)
②一時的滞在用宿泊棟
③事務・管理棟:
国司・郡司・調物担当者の執務用建物
④動線・出入口:
市・道路側(東市西辺)に向けた荷の出し入れ動線
内部は倉庫列の前面に広い前庭(荷置き場)
前提1):天平勝寳8歳2月6日(西暦 756年)時の1貫文をいかに現代に換算するか
本稿での計算方法は、独自に 「1貫文=銅銭1000枚=米2石前後が買える額」 とみなし、米価を基準に換算。
米1石 ≒ 150kg
令和7年の米10kg は時価4,000円と規定 → 150kg = 60,000円 → 2石 = 120,000円
前提2)「六十貫文」の換算(目安)
質問:「左京八条三坊者 得價銭六拾貫文」
の 六十貫文 を、上記の方式で計算するならば、
1貫文 ≒ 12万円 と仮定
60貫文 = 60 × 12万円 = 約720万円
今回の史料では、東市に隣接する左京八条三坊約3600坪が居抜きで、得価銭六十貫文で売買されたとする記録である。
つまり 平城京の市街地、それも東市に隣接する稀少価値のある商業地域での土地売買 記録である。
平城京の標準的な土地価格は、それを裏付ける詳細な不動産価格データもないものの、
3600坪÷60貫= 1貫あたり60坪(=約198㎡)
となる。
さらに言えば、相模国調邸(1町=3600坪)が60貫文で売買されたということは、
坪単価:1坪=約0.016貫(=16文)<計算式は1貫=1000文、1坪=16文>
となる。天平勝宝8年段階で、1坪=16文が現代の不動産価格で高いのか、安いのかんの判断は皆様にゆだねる。
なお、奈良時代の不動産常識では
町=60丈 × 60丈
1段=360歩(=60×6)
1里=60町
租税の基準:反別計算も60進的な構造
であるので、「60」は土地制度の基本単位であった。
それゆえに、相模国司と東大寺の不動産売買は「1貫=60坪」 と算定したらしい。
この相場感に即していえば、売買価格60貫文は東市に隣接する稀少物件であったので、東大寺にとっては投資物件としてはねらい目の物件であったに違いない。
だから若干割高でも買い求める東大寺側の買い急ぐ理由があったか、あるいは地主の相模国司が売り急いだために取引相場よりも若干安い価格帯であったかは、いずれとも決しがたい。
しかしながら、本稿の筆者にとっての大きな疑問は、なぜ相模国司は稀少な物件を売らざるを得なかったのだろうか。そして売却後、その機能は平城京内のどこへ移転したのだろうか。後者に関しては全く記録はない。購入者の東大寺にとって、売り手の動静などは無関心であろう。
ところが、なぜ相模国司が売却を希望したかは、仮説を立てやすい。
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