そもそも、なぜ相模国司は平城京内の稀少物件「調邸」を売らざるを得なかったのだろうか?
この疑問が、本稿の問題の所在である。
いまさら夏目漱石の『草枕』の冒頭を語るまでもなく、歴史家でも日本史学研究者などの看板を持たない門外漢だけに、学界の縛りなどとは無縁だけに、本稿の筆者は自由に想像の翼を広げたい。
ところで売却後、その「調邸」は平城京内のどこへ移転したのだろうか。遠く相模国から上京した人々が重い荷を下ろし、休息もしたはずの半公的空間は必ず必要であったはずだが、記録はない。購入者の東大寺にとって、売り手の動向などは無関心であろう。
ところが、なぜ相模国司が売却を希望したかは、仮説を立てやすい。相模国司が緊急に必要となった資金計画とは、何だったのか。あるいは資金難に陥った事業計画であったかもしれないからである。それは何か?
仮説:天平年間(729–749)における相模国の寺院建設として、聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立政策(天平13年=741年詔)の代表的寺院が相模国分寺・相模国分尼寺であったので、第1に想定されるのは建設費への補填であり、第2に相模国分寺・相模国分尼寺建設に従事した工人たちへの給与支払い(奈良大仏建立に従事した工人<作業員>らへの貨幣支払いに充てたとも想定される。
さて、相模国における天平年間と寺院建設 は次のように整理できよう。
1. 国家政策としての寺院建設(天平13年・741年)
聖武天皇による国家鎮護政策の指示は国家プロジェクト:「金光明四天王護国之寺」として全国に建立された国分寺・国分尼寺
この詔に基づき、相模国司は国分寺・国分尼寺を海老名台地での建設計画に着手。
2. 天平期の巨大伽藍
創建:天平年間(724–749)、もしくは750~760年代(国平健三説、天平勝宝・天平商宝治年間。藤原仲麻呂政権下。752年に東大寺大仏の開眼供養)、さらには弘仁10年(819)の火災以降:前場幸司説など)。
伽藍配置は全国でも珍しい法隆寺伽藍式(塔=西、金堂=東、講堂=北)か。
寺域は東西240m × 南北300mの大規模。
七重塔の基壇は約20m、高さは推定65m
の東国でも最大級の寺院であった。しかもツインとして相模国分尼寺(国分寺跡の北に隣接)建設にも着手せざるを得なかった。しかしながら、この二つの寺院が同時並行に建設されたとは想像しがたいのは、
国分寺よりやや遅れて8世紀後半(天平後期)に整備されたと推測
3. 相模国の特殊性:国府と離れた国分寺
多くの国分寺は国府近くに置かれたが、相模国では国府(平塚市四之宮説が有力)と国分寺が離れている。
4, 関東における巨大寺院の成立
七重塔65mは、奈良の主要寺院に匹敵する規模。
相模国の政治的地位以上に、宗教的・象徴的な重視があったと考えられる。
5, 地域開発と寺院建設
海老名台地・丘陵の富士系テフラの上に作られた遺跡は相模川流域の交通・物流の要衝。
寺院建設は海老名地域の開発・富の集積を促進した
海老名台地に巨大伽藍が建設され、関東屈指の宗教拠点となった。
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