岩永省三著「文武大嘗宮論のための予備的検討 」『九州大学総合研究博物館研究報告』第22号、第22号、 2025, pp.81-115
考古学者として著名な岩永氏であるので、発掘調査記録であると思い込んで読み進めていたところ、豈図らん、それは考古学者による日本古代文献史学への挑戦的なアプローチであった。
どうやら岩永氏の心の中に長年くすぶり続けたモヤモヤ、つまり
「安閑から文武に至る歴代大王墓に
ついて,造営場所,改葬・追葬の有無などの基礎的情
報 を整理し,それらの背に,王統の確認・正統化・強化
などの政治的意図があること」
の未確認があったので、それを問題の所在としてスタートさせ、最終目的を
「藤原宮朝堂院における文武大嘗宮の位置を,既調査地の
検出遺構の詳細な検討によって推
定し,その背後にある
持統の皇統観を描き出すことにしたい」
と定めておいでのようである。
そのキッカケは、本来「大嘗祭で用いられ,儀
式の終了と共に撤去された仮設の建物群」であるだけに、大嘗宮儀礼執行の場とその形成・整備過程など天皇即位儀礼遺構 に見出せるはずもなく、またその変遷も考古学的な調査発掘をしても「物証を持って把握できる」に至らないはずである。しかしながら、岩永氏はその「稀有な例」に遭遇し、発掘調査報告書は執筆できるとしても、その次のステージ、遺構が語る「意味・評価」などに言及できなかった悔しさが残ったようである。それは「奈良時代における大嘗宮の構造と変化が判明したが 」の接続助詞「~が」に集約されるだろう。
「平城宮で元正・聖武・淳仁・
称徳・光仁・桓武の5天皇の即位に伴う大嘗宮が発見さ れ,奈良時代における大嘗宮の構造と変化が判明したが
(岩永2006a・2006b・2010))
岩永氏の分析視点は、
「即位する天皇の王統上の位置づけ
と天皇位継承の正当性が表現されていると考えている」
として明瞭である。
ただし、この視点は別に斬新ではないが、それまで文献史学や皇族史学、民俗学などの研究によって積み上げられてきた幾多の成果を、考古学的な観点から再検討することに意義がある。その試みは「文武即位に先立つ7世紀の大王家の王統の形成過
程を辿り,文武の即位を強行した持統の皇位継承構想と
皇統観,文武即位の歴史的評価」に直結する手続き上、不可欠であると論文の冒頭で宣言する。だからこそ岩永氏の最初の的は、折口信夫らの「大嘗祭論」への反論・破壊であった。それ以後の行論にしても、折口流派の方々、例えば岡田精細司氏らへの追及の手をゆるめない。その詳細は本文一読にゆだねたいが、行間からうかがうに、岩永氏が親和性を持つのは
*大津透氏と倉本一宏氏の問題関心
であったようだ。だからこそ、岩永氏の論述は、考古学者として「異例」にも、
「26 焼失した飛鳥板葺宮跡地に後飛鳥岡本宮を造営した.その
東方の丘陵には石垣を巡
らせた特殊な施設を築き,飛鳥寺の
北西側には漏刻(水落遺跡)や饗宴・儀礼のための大
規模な
施設(石神遺跡)を設けた.須弥山を象った石像を用いて仏
教行事や夷狄の服属儀
礼・饗宴を行うなど,王権の神聖化を
図った.この時期には蝦夷居住域への侵攻を日本海
沿いと太
平洋沿いの双方で進め蝦夷に朝貢させることで,異民族を支
配する「帝国」の体
裁を整えようとした.」
とまで、彼の思考は発展する。
さて、岩永氏の既発表の論文、
①岩永省三2006a「大嘗宮移動論―幻想の議政官合議制―」『 九
州大学総合研究博物館研
究報告』
② 岩永省三2006b「大嘗宮の付属施設」『喜谷美宣先生古希記念論
集』
③ 岩永省三2010「大嘗宮移動論補説」『坪井清足先生卒寿記念論文
集』下巻
などを知るだけに、「ネタ晴らし」をするのは我が意ではないので、このあたりで擱筆すべきかもしれない。
それにしても奈良文化財研究所や九州大学などの宮仕えの労を多謝しつつ、それまで考古学者の「職業病」である「遺物が語らないことは、沈黙する」ことの心理的臨界から解放されて、「遺物・遺跡と年代決定」の最強兵器を自由自在に駆使して、古代史学の面目を一新する論考を陸続と発表していただきたい。
その期待は大きい。
認した.
大王と妃の葬送に関しては,複数のキサキがいる中で,
どのキサキをいつ・どこに埋葬するかという点は,その
時々の葬儀を主宰した現大王と前大王との関係,現大王
と権力核を構成する有力氏族との関係などが関わってい
る.王統の確認・正統化・強化などの政治的意図が背景
にある場合が多い.
こうして見ると,王族墓における追葬
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