史書や木簡などを活用して、周知の通り「安房国と上総国」との変遷を知る。
しかしながら、その理由に関しては、先行研究に未知なままで我が珍説を提出したい。
まずはおさらい。
養老2年 (718年)5月1日以前 | 上総国 |
養老2年 (718年)5月2日~天平13年 (741年)12月9日 | 安房国 |
天平13年 (741年)12月10日~天平宝字元年 (757年)5月7日 | 上総国 |
天平宝字元年 (757年)5月8日以降 | 安房国 |
私の珍説のポイントは
*皇后の有無
である。
資料①)「安房国朝夷郡健田郷仲村里戸私部真鳥調鰒六斤三列長四尺五寸束一束養老六年十月」
それ以外にも木簡資料はいくつも残されているが、この鰒6斤の貢納先が、荷札木簡に「私部」と記載されたことで判明する。すでに岸俊男氏によって論証されたように、私部は、古代日本において后妃のために設置された彼女らの部民集団である。初見は、
『日本書紀』敏達癸6年(577)2月1日条に
「詔して日祀部・私部を置く」
とある。
したがって、この国に私部が存在することは、皇后経済的基盤を維持するための人間を配置したと知る。とすれば、この調鰒の貢納先が皇后宮(皇太后宮)であると推定してよいはずである。
資料②皇后リスト
天智天皇 668-671 倭姫王
天武天皇 673ー686 持統天皇
持統天皇 690-697
文武天皇 697-707 藤原宮子
元明天皇 705-715 <661-721>
元正天皇 715-724 <648-748>
聖武天皇 724-749 光明皇后
孝謙天皇 749-758 <718-神護景雲4年(770)>
淳仁天皇 758-764
我が珍説の背景には、
*疑問:女系天皇在任時、宮内には后妃は不在である。原則、后妃への献納はどこへ上納されるのか
という点にある。
本来であれば、
①古代日本における大王から天皇支配への変遷
②名代・子代からミヤケ・私部・乳部(壬生部)への変容プロセス
③名代・子代伝領形式の研究
④養老戸令応分条の研究、つまり后妃の離婚、もしくは死亡時の后妃財産(嫁資)所有権の移動先
⑤ミヤケ設定とカベネ授与
を考慮しておかねばならないが、それらは割愛する。
ところで、上記の皇后リストと二つの国名変化が一致しないものの、一つの見通しとして
*珍説:皇后不在の時に「上総国」、存在の時「安房国」ではなかったか。
と提出しておきたい。誤りがあれば、すぐに撤回する。
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