渡来無文土器人は半島から北部九州に来住した。
現在の考古学の研究水準では、武末純一氏の紹介では、
(1ー1)「原の辻遺跡では中期前半に環 溝よりも西外側の低地、八反地 区に大陸系の敷粗朶工法で船着 場がつくられた。そこから北側 に隣接する不條地区には、弥生 前期後半から中期後半に、水石 里式系および勒島式系の無文土 器・擬無文土器が集中し、土生 型の様相を呈する(図11)。重 要なのは水石里式系だけでなく 勒島系の無文土器・擬無文土器 もみられる点で、半島南部の後 期無文土器人の継続的な渡来・ 集住を示す。かれらが中心部か ら制御された面は確かにある。 しかし、集落の中心部に入って その論理にからめとられること を避けて、あえて周縁部に住み、 故地との交流回路を維持しなが ら,船着場の築造、さらには一 支国の対外交流を主導して,国 づくりに関わる形で周縁から中 心部を制御した面も同時にあったとみられる。」(武末、14頁)
まで推測できるという。興味深いのは、武末氏が記述する「集落の中心部に入って その論理にからめとられること を避けて」の箇所である。含蓄の深い文となっており、ある一定期間、和人との混住・共生・混合・融合・融和などを避けて、しかも和人の政治的権力に抵触しない範囲内で、いわば「つかず離れず」の関係を維持しながら、相互の権益を確保したと、私は推測する。それが争いを避けて、賢明に共存できる道であったからだろう。
大切なことは、武末氏の推測が単に原の辻遺跡だけでなく、条件さえ整備されれば、北部九州のいくつかの場所でも成立した円形ドーム型居住形態であったことである。慧眼な武末氏の視点は、
(1-2)「熊本市八ノ坪遺跡の青銅器製作地区も、拠点集落の中心部ではなく周縁部にあり、弥生時代中 期前半の無文土器・擬無文土器が集中する(図12)。」(武末、14頁)
の事例を紹介する。
一方で、朝鮮半島に進出した和人の存在も忘れはならない。武末氏によると、
(2-1)「 朝鮮半島南部でも、弥生時代中 期初頭から前半をピークに、金海・ 釜山圏域、泗川圏域、蔚山圏域の 三地域で弥生人の集住が見られる (図13)。これまでは泗川圏域の 勒島遺跡で中期初頭から後期初頭 の弥生系土器が大量に出土して、 もっぱら注目されてきた。勒島遺 跡の弥生系土器は北部九州でも玄 界灘沿岸の遠賀川以西系が主体 で、それも甕がかなりあって、弥 生人の集団的居住が想定される。」(武末、15頁)
だという。
武末氏は慎重に論を進めて、軽率に「北部九州と朝鮮半島南部の両地域」に見られる住民(あえて「民族」とか「国家」とは記述しない)を一歩進めて記述している。慎重居士の多い考古学徒にあって、珍しい存在であるが、それだけに頼もしい。
ここからは、論者の仮説である。上記の「勒島遺 跡の弥生系土器は北部九州でも玄 界灘沿岸の遠賀川以西系が主体 」であるとすれば、彼らの子孫は宗像・志賀海人であった可能性が大であると考えたい。その彼らが近畿勢力と共に沖ノ島祭祀遺跡群を作り上げたのではないだろうか。
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