2025年9月11日木曜日

武末純一先生へーー福岡市西新町遺跡は、東地区が加耶系、西地区は百済(馬韓) 系が主体(武末純一説)


案:武末純一先生のご指摘に、言語学的知識を加味してはいかがでしょうか。

先生の玉稿である「日韓交流と渡来人-- 古墳時代前期以前」(『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報』 第4号、2018年3月、5~41頁)を拝見しました。「(福岡市)西新町遺跡の渡来人は、東地区が加耶系、西地区は百済(馬韓) 系が主体であったといえる。」は、きわめて興味深いご指摘です。

 しかしながら先生のご説明には、論を一歩進めて、あれだけ狭い地域に位置する西新町遺跡であるのに、「渡来人は、東地区が加耶系、西地区は百済(馬韓) 系が主体」に区分されている理由をご説明になっていません。これまでが半島系渡来人として「十把一絡げ」に説明されてきただけに、大きな進歩だと思います。

浅学菲才の身で、考古学の大家である武末先生に僭越ながら、そこでの補助線を提出するならば、そもそも加耶系言語と百済系言語は大きく異なっていた事実に注目してはいかがでしょうか。

すでに河野六郎先生がご指摘になったように、韓族である加耶人とツングース系古アジア族である百済人・高句麗人との間には、大きな言語差が存在しました。(1992 年度 実績報告書「三国志に記された東アジアの言語および民族に関する基礎的研究:)

 したがって、半島系渡来人と言っても、それには言語を指標として大きな民族的・文化的・言語的差があったことを想起していただきたい。したがって、東地区が加耶系、西地区は百済(馬韓) 系が主体となって居住していたというのは当然です。なぜならば言語的コミュニケーションに難渋したからです。

誤解を恐れずに言えば、加耶系タウンと百済系タウンとにわかれて、互いに共存しながら同一地域に定着していたと考えてよいはずです。

この愚見を詳細に論述するにやぶさかではありませんが、それは武末先生に煩雑すぎるでしょうから、あえて割愛します。

  「北部九州の福岡市西新町遺跡は砂丘上の遺跡で、古墳時代前期前半の布留0式併行期から、後 半の4世紀後半頃(筆者の有田ⅠA期)の朝鮮半島系の遺物が、この時期の日本列島では珍し く大量に出る。遺跡は大きく西地区と東地区に分かれ、その間は少し地形が落ち込む(図40)。  東地区の調査面積は少ないが、4世紀代の加耶土器瓦質短頸壷2点と、土師質の擬加耶土器で 肩に一条の暗文線が入る炉形土器1点が出た。西地区では、加耶土器もあるが、直口で平底に小 さな蒸気孔が多数あいて棒状把手がつく軟質土器甑、頸部が一度直立する軟質土器小型平底鉢、 大きな平底で把手の孔が上下に貫通する瓦質・陶質土器の短頸直口壷など、全羅道(湖南)地域 の百済(馬韓)土器が主体をなす。西新町の渡来人は、東地区が加耶系、西地区は百済(馬韓) 系が主体であったといえる。」(日韓交流と渡来人-- 古墳時代前期以前」(『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報』 第4号、2018年3月、5~41頁)


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