2025年9月8日月曜日

埼玉県行田 市の酒巻14号墳出土埴輪ーー半島系文化の日本国内における各種ルートの仮説

 行田市に酒巻14号墳がある。埼玉県の資料によると、その概況は下記の通りである。

宅地遺跡は秩父鉄道行田市駅の北西約5kmの地点に位置し、利根川石岸に沿った東西に細長い自然堤防上に立地しています。 遺跡周辺には6世紀前半から7世紀前半頃に造営された酒巻古墳群が広がっています。重要文化財の国内唯一の旗を立てた馬形埴輪、古代朝鮮半島の筒袖の服を着用した人物埴輪、まわしをしめた力士と思われる男子埴輪が出土した14号墳、須恵器の大甕などを並べた葬送儀礼の痕跡が確認された8号墳などが調査されています。 宅地遺跡はこれまで5次にわたる調査で、酒巻古墳群と同時期の集落跡が確認されました。」公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団HP,  宅地遺跡 |ただいま発掘中!| 埼玉県埋蔵文化財調査事業団

 その古墳から出土した埴輪の特長の一つは三角帽子である。一見して、和人とは思えない服飾と風貌である。朝鮮半島系渡来人を想定しても大きな誤りはない。


そして、重要文化財の国内唯一の旗を立てた馬形埴輪に関しては、太田博之氏によると

「蛇行状鉄器は,高句麗古墳壁画の表現や行田市酒巻14号墳出土の馬形埴輪(図4‒2:太田・滝沢 1988)から,馬の鞍に取り付けられる旗竿としての機能をもつ器物であることが明らかである。朝 鮮半島では,晋州水精峯2号墳出土資料(図4‒3:定森ほか1990),陜川磻溪堤タA号墳出土資料 (図4‒4:国立晋州博物館1987)加耶・新羅地域で15点,日本列島では,埼玉将軍山古墳出土資料2 点のほか福岡県宗像市大井三倉5号墳出土資料(図4‒5)など計8点の出土例があり,高句麗古墳 壁画では通溝12号墳,双楹塚古墳の2例が知られる。」’(太田博之、172頁)


酒巻14号墳出土埴輪/行田市


であると、朝鮮半島系器物(「馬の鞍に取り付けられる旗竿としての機能をもつ器物」)であると解釈されている。

  さて、我々の観点から、この酒巻14号墳出土埴輪をいかに観察したらよいだろうか。

仮説①:現在の欧米製ブランド商品のように、朝鮮半島からの舶載品。北九州に搬入された品が瀬戸内海⇒近畿⇒東海道・中山道・北陸道もしくは海上ルートなどを経由して、人から人へと伝来し、行田に定着。

仮説②:半島から北九州に移住した朝鮮人(加耶・百済・新羅・高句麗など)が瀬戸内海から近畿へと移住、和人王権の東国への伸張に協力することで、王権内の有力家門に随従しながら東国へ至った。その時間的経過は2世代・3世代、ときには4世代i以上経過したかもしれないが、彼らは朝鮮半島にルーツを持つ職能集団であることに誇りを持ち、そしてそれが集団的凝集力をより強化するので、朝鮮半島系文化を維持してきたので、それを顕現化する武人像。ふんどし姿の力士像(相撲が神聖儀礼である可能性は大)、されは横穴式石室などの死後の世界を持ち続けた。

仮説③日本国内の製鉄材料需要の増加に伴い、半島出土のいわゆる「加耶の鉄」(「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡」『三国志』魏書東夷伝弁辰条、朝鮮半島洛東江流域の加耶諸国や栄山江流域の慕韓など)が、世紀末に日本国内で鉄生産が開始する前に、斧状鉄板や鉄鋌などのリサイクル品形で大量に供給されるために、半島南部から日本国内に移住ではなく、一時的滞在はするが、その後は半島内に定着しないで、日本国内と半島とを往来する者もいた可能性を提示しておきたい。


仮説④半島系製品が日本に流入する時、必ずしも北九州地域を経由しない場合があることは、武末純一氏のご教示で知った。「朝鮮半島と中国・四国地域の直接交渉を示すのが梯形鋳造鉄斧である。」という。この詳細なデータを知らないので、これ以上の説明は不可能であるが、近畿地方で出土する「小形方柱状片刃石斧を模倣した鉄整(川越氏分類Ba型鉄撃)」(川越哲志 1993 『弥生時代の鉄器文化』 雄山閣、1993年、101頁)などにしても、その初見は北九州や瀬戸内海ではなく、突如として近畿地方、例えば兵庫県豊岡地方などに出土する。

また、「近畿地方北部では、 舶載品と考えられる類例が素 環頭鉄刀や鉄鏃、鈍などの各 種鉄器に見られ、大陸・半島 との直接的な接触地域とみな すことができる。」(野島 永「近畿地方の弥生時代の鉄器について 」113頁)などの指摘もある。




,

<参考資料①>

太田博之「東日本における古墳時代後期の朝鮮半島系遺物と首長層の動向(第1部 7世紀の地域社会)」
『国立歴史民族学博物館研究紀要』巻 179, p. 167-196, 発行日 2013-11-15

0 件のコメント:

コメントを投稿