万葉集中でも有名な歌であるので、あえて以下のままとする。
566番歌
大宰大監大伴宿祢百代等贈驛使歌二首
草枕 羈行君乎 愛見 副而曽来四 鹿乃濱邊乎
草枕旅行く君を愛しみ副ひてそ来し志可の浜辺を
右一首大監大伴宿祢百代
以前天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽生瘡脚疾苦枕席。因此馳驛上奏、望請、庶弟稲公姪胡麻呂、欲語遺言者、勅右兵庫助大伴宿祢稲公、治部少丞大伴宿祢胡麻呂兩人、給驛發遣、令省卿病、而逕數旬、幸得平復、于時稲公等、以病既療、發府上京、於是大監大伴宿祢百代。少典山口忌寸若磨、及卿男家持等、相送驛使、共到夷守驛家、聊飲悲別、乃作此歌
太宰大監大伴宿祢百代等 駅使に贈る歌二首
草枕 旅行く君を 愛しみ 副ひてそ来し 志可の浜辺を
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今、本566番歌全体の注釈は別に譲るとしても、
*大伴古麻呂 治部少丞大伴宿祢胡麻呂
古麻呂の「古」は万葉仮名「こKoの甲類」、それに対して「胡麻呂」の「胡」は「ごGoの甲類」である。不思議である、同一人物だろうか。
治部少丞
従六位上相当官。治部省は外交を統括する機関。大伴旅人の姪。旅人の父、つまり古麻呂の祖父である安麻呂の孫として蔭職により、古麻呂は21歳に正七位上の位階に叙されていただろう。史上に初めて登場するのは、天平2年(730)であるが、その後天平10年(738)に兵部大丞(『大日本古文書』24-74)に昇進する。天平17年(745)正月、従五位下に叙され、天平勝宝2年(750)9月に遣唐使副使として派遣される。正使は、藤原北家の祖である参議・藤原房前の第4子、参議藤原清河。天平勝宝4年(752)閏3月9日、孝謙天皇から古麻呂は節刀を授けられ、第2船の責任者となる。併せて従四位上に叙された。
<参考文献は後日>
遣唐使として、中国に出発する大伴古麻呂を囲んで、大伴古慈悲の家で「送別の宴」(餞)は開かれ、
閏三月於衛門督大伴古慈悲宿祢家餞之入唐副使同胡麻呂宿祢等歌二首
韓國尓 由伎多良波之弖 可敝里許牟 麻須良多家乎尓 美伎多弖麻都流
韓国に行き足らはして帰り来む 大夫健男に御酒たてまつる
右一首、多治比真人鷹主壽副使大伴胡麻呂宿祢也
(右件歌傳誦大伴宿祢村上同清継等是也)
とあり、4263番歌に、
梳毛見自 屋中毛波可自 久左麻久良 多婢由久伎美乎
伊波布等毛比弖 (作者未詳)
櫛も見じ屋内も掃かじ草枕旅行く君を斎ふと思ひて
右件歌傳誦、大伴宿祢村上同清継等是也
とあることで判明するように、大伴氏一族である大伴村上、大伴清継らがこの宴席に招かれていた。
なお、この遣唐使正使である藤原清河に対する送別の宴が開催され、『万葉集』巻19に収載されている(4242~4244番歌)。宴を主催したのは、当時の権力者藤原仲麻呂。
入唐した遣唐使一行は玄宗皇帝に謁見する。長安における大伴古麻呂など遣唐使の動静は、『東大寺要録』巻1に引かれた唐僧思託撰『延暦僧録』勝宝感神聖武皇帝菩薩伝に認める。この『延暦僧録』記事は『日本 高僧伝要文抄』中の逸文として残っている。
「又発使入唐。使至長安。拝朝不払塵。唐主開元天地大宝聖武応道皇帝云、彼国有賢主君、観其使臣、◆揖有異。即加号日本、為有義礼儀君子之国。後元日拝朝賀正。勅命日本使可於新羅使之上。又勅命朝衡、領日本使於府庫一切処。遍宥、至御披三教殿。初礼君主教殿。御座如常荘飾、九経三史架別、積載厨龕。次至御披老君之教堂。閣少高顕。御座荘厳少勝、厨別龕函、盈満四子太玄。後至御披釈典殿。殿字顕敖、厳麗殊絶。龕函皆以雑宝厠填。檀沈異香。荘校御座、高広倍勝於前。以雑宝而為燭台。々下有巨鼇、戴以蓬来、山上列仙宮霊宇、戴宝樹、地慧々紅、頗梨宝荘飾、樹花中一々花、各有一宝珠。地皆砌以文玉。其殿諸雑木、尽鈷沈香。御座及案経架宝荘飾、尽諸工巧。皐帝又勅、模取有義礼儀君子使臣大使副使影於蕃蔵中、以記送遣、大使藤原清河拝特進、副使大伴宿禰胡万拝銀青光禄大夫光禄卿、副使吉備朝臣真備拝銀青光禄大夫秘書監、及衛尉卿朝衡等致設也。開元皇帝御製詩、
送日本使五言。日下非殊俗、天中嘉会期、伱余懇義遠、矜爾畏途遠。漲海寛秋月、帰帆◆夕◆。因聾彼君子、王化遠昭。特差鴻臚大卿蒋桃椀、送至揚州看取、設別牒准南、勅処置使魏方進、如法供給送遣。」
とある。『延暦僧録』によると、藤原清河を大使とする遣唐使一行は、
(1)
玄宗皇帝が「有義礼儀君子之国」と加号した
(2)
元日、賀正に拝朝したところ、勅命によって日本使を新羅使之上においた
(3)
勅命によって、朝衡が日本使を府庫に案内した
(4)
勅命によって、有義礼儀君子使臣大使副使の肖像画(影)が描かれた
(5)
玄宗皇帝が遣唐使一行に「御製詩」を与えた
(6)
勅命によって、特に鴻臚大卿蒋桃椀を派遣し、揚州まで送らせた
と判明する。天平勝宝6年正月に鑑真とともに来日した思託によって記述された記事だけに、大きな誤りはないと想定している。したがって、従来、新羅使と日本使の席次をめぐる紛争を虚構と断ずる先行学説もあるものの、私は賛同しない。石井正敏の論を全面的に支持したい(「大伴古麻呂奏言について : 虚構説の紹介とその問題点」『法政史学』35巻、27-40頁、1983年)
私の考えでは、『続日本紀』天平勝宝6年正月丙寅(30日)条にみえる次の記事、
「副使大伴宿禰古麻呂自唐国至。古麻呂奏曰、大唐天宝十二載 、 歳在癸巳正月朔癸卯、百官諸蕃朝賀。天子於蓬莱宮含元殿受朝。是日、以我次西畔第二吐蕃下、以新羅使次東畔第一大食国上。古麻呂論曰、自古至今、新羅之朝貢◆日本国久矣。
而今列東畔上、我反在其下、義不合得。時将軍只懐実見知、古麻呂不肯色、即引新羅使、次西畔第二吐蕃下、以日本使次東畔第一大食国上」
とある記事も、多少の誇張や粉飾があったとしても、その事実(席次の交代)は存在したと
考える。
唐からの帰国後、新羅との席順争いに勝利したことや、中国の高僧鑑真の来日などによって、大伴古麻呂の評判は高まったはずである。天平勝宝6年(754)正月30日の帰朝報告以来、同年4月5日左大弁に昇進した。その部署は太政官を指揮命令する。そして翌々日の4月7日に正四位下に叙された。同年7月に太皇太后藤原宮子の逝去に伴い、古麻呂は造山司に任命された。天平勝宝8年(756)5月2日に伊勢神宮への奉幣使に任じられたが、その翌日に薨去したために、急遽、古麻呂は山作司に任命された。
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