『養老令』軍防令に
「軍防令六五 東邊條:凡緣東邊北邊西邊諸郡人居。皆於城堡內安置。其營田之所。唯置庄舍、至農時堪營作者。出就庄田。收斂訖勒還。其城堡崩頹者。役當處居戶隨閑修理。」(東辺、北辺、西辺にある諸郡の人居は、皆、城堡に安置せよ。其の営田の所は唯庄舎を置け。農事に至り、営作に堪えたる者は出でて庄田に就け。収斂<収穫>訖り、牛馬を収めたならば<勒>、城堡に還ること。その城堡が崩頹したならば、當處の居戶を役して閑に修理せよ。)
とある記事を思い浮かべる。
北辺や東辺は陸奥や出羽であろうが、西辺は薩摩・大隅・日向を示すと考えてよい。
とすれば、日向国における村落の一部は、中央政府がデザインした辺境政策を反映した隼人支配のための拠点施設が存在したと想定しても、さほど奇妙ではないだろう。つまり日本の東と西には、北では蝦夷・南では隼人対策のために設置された城柵が存在したと考えたい。つまり、豊前・豊後国人を日向・大隅に移配し、その農民を準戦闘員として城郭に安居させて、隼人と対峙させたと想定するとしても、不自然ではないだろう。
すでに永山修一氏や考古学者たちの指摘は、その指標として企救型甕を取り上げている(『宮崎県史』(通史編)や豊前・豊後系の企救型甕の宮崎県内での出土状況につい ても検討した今塩屋毅行の論文は注目に値する<今塩屋毅行2014 「古代の豊前・豊後系土師器−「企求型甕」の軌跡−」『宮崎県央地域の考古資料に関する編年的研 究−東九州道調査以後の新地平−』 宮崎考古学会>)。
周知の事実であるが、企救型甕の生産地とは勝円B遺跡(豊前国企救郡)、馬場長町遺跡(豊前国 京都郡)、下郡遺跡、井ノ久保遺跡(豊後国大分郡)などであったと言う(ja)(著者は森康(北九州市立自然史・歴史博物館) ・佐藤浩司(北九州 市芸術文化振興財団)・坪根伸也(大分市教育委員会)・稗 田智美(臼杵市教育委員会)・今塩屋毅行(宮崎県教育庁)・ 龍孝明(小郡市教育委員会)・小田裕樹(国立文化財機構奈 良文化財研究所) )。
日向国では、例えば次の2つの遺跡を紹介しよう。
(1)都城市上の園遺跡(宮崎県都城市姫城町6街区21号)
「遺物の種類は、圧倒的に須恵器が多く、わずかに土師器が加わる程度である。須恵器の 器形は甕・壺・坏身・坏蓋・碗・高台付碗・皿・高坏と多岐にわたり,かなり大型の破片 のものが多い。また,底部に「秦」という墨書のはいった須恵器・高台付碗・皿・土師器・ 碗と、体部最下部に花弁状の墨書が巡る土師器・坏が出土しているほか,須恵器・蓋を二次利用した転用硯も発見されている。 今回の調査では約900点の須恵器が出上しているが、 この中には当地方ではこれまであ まり出土していない外蓋がかなり含まれており、 これらの須恵器の蓋を模して作ったとみ られる土師器の外蓋も共伴して出土している。こうした蓋のつまみの形態や日縁の形状, 碗や高台付碗の形態的特徴に依拠する限り、 これらの須恵器の実年代は, 8C後半から9 C代と考えられる。なお, この他にも黒色土器や古代末から中世初頭頃の瓦質土器が出土 しているが、数量的にはごくわずかである」
「現在までに確認している墨書土器は4点である。そのうち氏姓を記したと思われるものは3点で,いずれも「秦」ないしそれに近い文字が,須恵器の高台付碗の高台内部や土師器の碗の底部の縁の,似たような場所に書かれている。書体は同一のものではないが,記 されている文字や場所がほぼ同じことから,なんらかの規格性をもったものではないかと 考えられる。 さて当地方において氏姓とみられる墨書が出土したのはこれが初めてであり,また「秦」 姓に関連した資料についても, これまで皆無であった。ただ,豊前・豊後でよくみられる この姓が, どうして当遺跡から出上した土器に記されていたのかという問題は, これらの土器が出土した古代の建物群の位置付けとともに重要な問題である。 都城盆地は,古くは日向国に属するが,地理的には旧大隅国の縁辺部に近く,その影響 多分に受けていた可能性が高い。永山修一氏の御教示によると,その大隅国へは, 8C 代に,秦姓の多い豊前・豊後国から軍事的意味合い(在地の熊襲・隼人族の教導)のもと に大量移民が行われたという記載がみえるらしく, こうした新勢力の余波が, この地まで 波及したということも十分に考えられることである。つまり,今回検出した建物群が,規模としては郷クラスであることもあわせて考えると,新たに入植したきた秦一族によって 形成された集落, もしくはその運営の中枢に秦一族が存在する集落として考えることもできるのではないだろうか。」
「都城盆地は,古くは日向国に属するが,地理的には1田大隅国の縁辺部に近く,その影響 を多分に受けていた可能性が高い。永山修一氏の御教示によると,その大隅国へは, 8C 代に,秦姓の多い豊前0豊後国から軍事的意味合い(在地の熊襲0隼人族の教導)のもと に大量移民が行われたという記載がみえるらしく, こうした新勢力の余波が, この地まで 波及したということも十分に考えられることである。つまり,今回検出した建物群が,規 模としては郷クラスであることもあわせて考えると,新たに入植したきた秦一族によって 形成された集落, もしくはその運営の中枢に秦一族が存在する集落として考えることもで きるのではないだろうか。」
(都城市_上ノ園第2遺跡 (2).pdf 『都城市文化財調査報告書』第27集
(2)片瀬原第2遺跡(宮崎市佐土原町下那珂)
7世紀後半から8世紀代の切り合い関係がある掘立柱建物跡と竪穴住居跡が26棟も検出された。須恵器蓋と(豊前)企救型甕胴部片2点の組み合わせ式の土器埋設遺構が検出された。
この2遺跡の事例でとどめ、我々は(豊前・豊後)企救型甕の出土をもって、その地が日向・大隅に移配された豊前・豊後国人の居住地であった可能性を指摘した文献史学の永山修一氏の仮説の検証が、今後の課題である。さらに上ノ園遺跡出土の「秦」姓の墨書土器が語るメッセージの解読も要求されるだろう。
確実なエビデンスを持たないことを予め事前了承していただけるとして、私の仮説は
①秦氏が朝鮮半島系渡来人であるとの前提に立つ。
②隼人との戦闘や日向国に派遣された豊前・豊後からの移配者が秦氏も含まれていた。
③日向国には、中央政府から派遣されてきた律令官人、豊前・豊後から移配されてきた和人・朝鮮半島系渡来人、俘囚(蝦夷)に加えて、隼人が混在(モザイク状か)していた
④隼人と対立し、隼人を牽制し、隼人との軍事的緊張感が存在し、時には隼人との戦闘状態に、そして時には隼人との交易をおこなう拠点として古代城柵が設定された。
⑤城柵は軍事・朝貢・客館機能に加え、農具・兵器製造・日常器具などの各種鍛冶工房・衣服令に基づく服飾品や装飾品などの各種生産工房、兵舎・祭祀・医療・埋葬施設などの機能を併せ持ち、隼人との最前線に建設された。
⑥城柵は官衙を中心に内郭と外柵を有する空間配置であった。
⑦上ノ園遺跡は中央政府の南進政策と一体となった移配政策の産物として集落であるとともに、地域間ネットワークの拠点でもあった。
と考える。古代都城にあって、
が居住する政庁(官衙など)
0 件のコメント:
コメントを投稿