2024年11月2日土曜日

薩摩守大伴家持

 大伴家持は天平宝字8年(764)正月に薩摩守に任じられる。その後、神護景雲元年(767)に大宰少弐に任じられるまで、薩摩国府で在勤した。

  • 薩摩国府の想定図薩摩国府跡(薩摩川内市)
    薩摩国府は現在の川内市に置かれました。川内平野北側の台地上の六町四方(一町は約109メートル)が国府域であり,その中央付近の二町四方が国衙域と推定されます。
    礎石を持つ建物跡や瓦を敷いた列などが発見されました。また,郡名ではないかとされる「高木」や国府の施設の一部を示すのではないかとされる「国厨」を記入した墨書土器や墨絵の描かれた土器,硯,緑釉陶器などの出土品があります。
    【図 薩摩国府の想定図】

考古ガイダンス第34回 – 鹿児島県上野原縄文の森

だと推定されている。 薩摩国府は大宝2年(702)に設置された。『続日本紀』大宝2年(702)4月壬子条に「筑紫七国」の語が見える。筑紫とは「筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向」の七国であった。


『延喜式』巻第二十四(主計上)では,

①大宰府−平安京間を 「大宰府(行程上廿七日。下十四日。)海路卅日」

②管内諸国−大宰府間の行定を記す。

 日向國(行程上十二日。下六日。) 調。絲十八絇。自餘輸二綿。布。薄鰒。堅魚一。 庸。輸二綿。布。薄鰒一。 中男作物。斐紙。麻。熟麻。茜。胡麻子。 

大隅國(行程上十二日。下六日。) 調。綿。布。 庸。綿。布。  中男作物。紙。

 薩摩國(行程上十二日。下六日。) 調。鹽三斛三斗。自餘輸二綿。布一。 庸。綿。紙。席。 中男作物。紙

とあるので、大伴家持の赴任は、直行したとしたならば、

平安京→大宰府が14日+大宰府→薩摩国が12日の計26日から1か月を見ていれば良い。

しかしながらいずれにせよ平安京からは遠い、僻遠にある赴任地であった。

上村俊洋氏によると、

「『延喜式』に見える平安期の西海道内の駅路(以下,本稿では駅名から推定される経路を駅路と する)では,薩摩国府最寄り駅に田後駅を比定すると,田後駅は大宰府から17番目の駅となる。大宰府−薩摩国府間は,約240kmとなり,田後駅までの駅間距離は平均約14kmとなる。大路以外の 西海道内駅路は小路扱いであるが,大宰府−薩摩国府間の平均駅間距離は,大路の10.4kmよりは 長いが,中路の東山道駅間距離15.6kmよりも短い14kmごとに駅が配置されていることになる。」(3頁)

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さて、薩摩国は13郡で構成されている。そのうち川内川の北部,高城郡と出水郡は移住者・外来者の居住地で「非隼人郡」、その南部や東部の11郡は隼人の地であった。したがって、薩摩国府は非隼人の地に置かれ、指呼の間に隼人居住地帯が広がっていた。その高城の地には、8世紀薩摩国府の周囲に肥後国内から多数の人々を移住させ、隼人と対峙させた。

それを推定させる史料として、天平8年(736)度の『薩摩国正税帳』を取りあげたい。 

  大領外正六位下勳七等 肥君
  少領外従八位下勳七等 五百木部
  主政外少初位上勳十等 大伴部足床
  主帳无位
  大伴部福足

(天平8年度『薩摩国正税帳』出水郡)


 前述したように、出水郡と高城郡(国府所在郡)は非隼人地域であった。肥後国と関係の深い肥君が出水郡の大領であったことは、肥後国から薩摩国へと移配された子孫の一人だと考えるのが自然である。
なお、大伴部足床や大伴部福足らの名も見えるが、大伴旅人が隼人征討軍大将として薩摩に派遣されたとき、薩摩の国に残留した人間であるとも推測する。

薩摩国の国府を肥後の人々で固めたように、大隅国の国府は豊前国を主とした人々を移配したとある。次の記事である。


 「隼人昏荒野心、未習憲法。因移豊前国民二百戸、令相勧導也」(『続日本紀』和銅七年三月壬寅条)
その数は約4000〜5000名であっただろう。

その薩摩国府に着任した大伴家持の任務は、
 「掌。祠社。戸口簿帳。字養百姓。勧課農桑。糺察所部。貢挙。孝義。田宅。良賤。訴訟。租調。倉廩。徭役。兵士。器仗。鼓吹。郵駅。伝馬。烽候。城牧。過所。公私馬牛。闌遺雑物。及寺。僧尼名籍事」(『養老職員令』)
「掌らむこと、祠社のこと、戸口の簿帳、百姓を字養せむこと、農桑を勧め課せむこと、所部を糺し察むこと、貢挙、孝義、田宅、良賤、訴訟、租調、倉廩、徭役、兵士、器仗、鼓吹、郵駅、伝馬、烽候、城牧、過所、公私の馬牛。闌遺の雑物のこと、及び寺、僧尼の名籍の事」

であった。
さて、大伴家持が薩摩守に任じられたことは一種の左遷だとする説が有力である。確かにそれは否定できないものの、大宝二年、薩摩国(唱更(しゃうかう)国)が新設された年には薩摩と多褹(たね)で抗戦がおこり、また養老四年(七二〇)に大隅国守殺害という事件が発生し、以後一年数ヵ月にわたって抗戦は続いた時、その征討のため大伴旅人が将軍に任命され、遠征軍を率いて薩摩・大隅の地で隼人鎮圧に従事したことも忘れてはなるまい。
 

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参考記事

なお、薩摩川内市国分寺自治会を記録する資料に、

我が郷中の歴史散策 がある。

国分寺自治会内の字(あざ)は,薩摩国府の発掘調査が最初に行われた①『入来原』(イギッバイ),田の神さぁのある②『石走島』(イッバシィジマ),旧火葬場南側台地の③『上原』,出土遺物等から薩摩国府の中心施設があったと推察される場所の④『大園』,渡り鳥の鴨が飛来していたからついたのでしょう⑤『鴨ケ迫』,我が畑の前の⑥『栗野ケ迫』(クレザコ),水源地展望台や市営墓地のある⑦『芸之尾』,江戸時代に再建された国分寺のあった自治会館の建っている⑧『国分』⑨『下原』,菅原神社のある⑩『杉山』(スッギャマ),「西原」は「尼寺」(ニジ)のなまったものではとして未発見の薩摩国分尼寺(ニジ)の候補地にもあがっている⑪『西原』⑫『中田』,国府に併設」

ざんねんながら、同所の地積図は上記のURLで見ていただきたい。大字・小字が歴史的記憶を語る貴重な資料であると教える。

これからは、私の仮説であるが、『養老令』軍防令に

「東辺、北辺、西辺による諸郡の人居は、皆、城堡に安置せよ。其の営田の所は唯庄舎を置け。農事に至り、営作に堪えたる者は出でて庄田に就け」

とある記事を思い浮かべる。北辺や東辺は陸奥や出羽であろうが、西辺は薩摩・大隅・日向を示すと考えてよいだろう。

とすれば、家持が実見した村落とは、柵戸制であったと考えたい。つまり、肥後国人を薩摩に移配し、その農民を準戦闘員として城郭に安居させて、隼人と対峙させたと想定できないだろうか。



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