2024年11月27日水曜日

(未定稿)(4訂版)大原郡衙跡ーー雲南市JR幡屋駅付近の地名「郡家」(郡垣遺跡)

 私の迂闊さを告白すれば、脚元の興味深い地名に気付きながらも、自らの怠慢で考察を後回しにしてきたことの一つに、

 雲南市JR幡屋駅付近の「郡家」(島根県雲南市大東町仁和寺)

がある。

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<参考資料>

①内田律雄「『出雲国風土記』大原郡の再検討(1)―「旧郡家」と新造院の比定一」『出雲古代史研究』第5号 1990年

雲南市教育委員会 2010 『雲南市埋蔵文化財調査報告書5:郡垣遺跡』雲南市教育委員会  郡垣遺跡 - 全国遺跡報告総覧

③島根大学 山陰研究プロジェクト1601ーー期 間:2016-2018年度

『出雲国風土記』の学際的研究ー代 表:大橋 泰夫(法文学部教授 / 考古学)

『出雲国風土記』の学際的研究 | 島根大学法文学部山陰研究センター

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『出雲風土記』研究者として名高い加藤義成先生(加茂町在住)に、生涯1度だけ尊顔を拝する機会に恵まれたが、その直話でも、

 「大東町幡屋の郡家」は『出雲国風土記』に記された大原郡家跡

ではないかと言う加藤説をご披露なさった。

しかも私としては、その幡屋村大字遠所出身の方々を存じ上げていたので、なおさらである。その地の言い伝えでは、昔、なにかの役所があったらしいとの事。そこで、同地の方のご案内で私自身も一度だけ訪問した折に、仁和寺に至る直線道を不思議がった記憶がある。ごくごくローカルな記述となり、誰もお分かりにならないだろうが。

その後、ナグネ暮らしに身を任せて、県外に身を置くと、すっかり探究を忘れていたところ、嬉しいことに雲南市役所教育委員会で発掘がなされ、どうやら大原郡衙であると言う見通しに逢着したという知らせを耳にした。

「郡垣遺跡において見つかった大型の柱穴群は、ここに相当規模の掘立柱建物が存在 したことを示 唆 している。遺構の形状、大きさや柱間などから、官衛関連遺構の可能性が高いものと考えられて いるが、遺構に伴う官衡関連の遣物がないことから、いわゆる状況証拠によってその性格を捉える しかないのが実状である。」(報告書、76頁)

「(結論)郡垣遺跡は、F出雲国風土記』記載の旧大原郡家跡推定地のひとつとして、古くから注目されてい たところである。平成18年度~平成19年度の調査で、規則性を持って並んだ大型の柱穴群を検出した。 これらの柱穴群は、弥生時代中期の遺物包含層上面から掘り込まれており、掘り形の底部は地山にまで及んでいた。このため、掘り形内部の埋土には多量の地山ブロックと弥生土器が含まれている。調 査によつて検出した柱穴群は、この周辺に相当規模の掘立柱建物が存在したことを示しているが、こ の建物跡の時期を知る手がかりを出土遺物に求めることはできなかった。ただ、『出雲国風土記』の 記述との関係において、この遺構が、斐伊郷へ移転する前の旧大原郡家もしくは屋裏郷の郷家などの 官衛関連施設である可能性は十分に考えられる。 弥生時代の遺構は検出されていないが、暗褐色上の遺物包含層から弥生中期の土器が数多く出土し た。この中には塩町式土器も見られることから、本遺跡周辺と備北地域との交流も窺える。また、分 銅形土製品1点のほか、黒曜石も出土している。」(雲南市教育委員会報告書、末尾)

我が事のようにうれしい。

博雅の士の教えを乞いたい。

今は、出雲方言で「郡家」をどのように呼んでいたかを思い出す日々である。確か「ぐうけ」(アクセント失念)ではなかっただろうか。

なお、牽強付会であるが、

*大東町郡家に隣接する仁和寺は、旧郡寺跡

ではないだろうか。

またさらに『上野国交替実録帳』(1030年ごろ)などに依拠して想像の翼を広げても良いと言っていただけるならば、

1)同地域には「下原口+中原口+上原口+山根口」の小字を見る。数は多いが、これは郡を中心に内郭と外柵を有する空間配置(外周りを築地塀や材木塀)柵の門名でなかっただろうか。ただし、掘立穴列は未発見。

2)郡家の前にある儀式空閑(前庭空閑)、郡家前の直線道路(南北道路もしくは西南道路)が今も残っていると考えられないだろうか。欲を言えば、市場跡も。

なお、幡屋の地名に関心をお持ちの方ならば、直感的に

*幡=秦

の等式を援用して、秦氏一族の居住跡と想定なさる方もおいでになるのではないだろうか。ただし半島式遺物などの出土例は見当たらない。しかしながら、郡衙には武器製造と絹織物製作、宗教施設や埋葬施設は付随していたので、まったく無関係ではあるまい。秦氏が織物に関する技術集団だという前提であるが、頓珍漢である可能性もある。

ところで、郡司の職掌に関しては、「職員令」大郡条には、


大領1人。{職掌は、所部を撫養し、郡事を検察すること。その他の領の職掌については、これに准じること。}

とある。しかし、『続日本紀』延暦5年(786)6月己未条に、
  *大領:勝部臣、少領:額田部臣、主政:日置臣、主帳:勝部臣
  *員外郡司、権任郡司・擬任郡司
などの職種が生まれた可能性もあるものの、その名を史書に確認できない。
 さらに言えば、大原郡にも、
  *郡老・郡務使・郡目代
などの職名も推定できるが、具体的な職掌は不明である。
 大原郡から采女が貢進されたことは、『続日本紀』天平12年(740)6月庚午条に、

「大原采女勝部鳥女還本郷。」

とあることで判明し、郡司勝部臣一族の姉妹子女が采女として貢進されたと想定して誤りはないだろう。

むろん郡司だけで郡政が担当できるはずもなく、そこには「郡雑任」と呼称される現地採用の官吏が雇用され、実務を担当した。『類聚三代格』弘仁13年(822)9月20日太政官符によると、

「郡書生 (大郡8人、上郡6人)、中郡4人、(下郡3人)

 毎郡案主 2人

 鎰取 2人

 税長正倉官舎 院別3人

 厨長 1人

 駈使 50人

 伝馬長 郡別1人

 徴税丁 郡別 2人 

 調長 2人

 服長 郡別 1人

 庸長 郡別 1人

 庸米長 郡別 1人

 器作 1人

 造紙丁 2人

 採松丁 1人

 採藁 1人

 採■(まぐさ)丁 3人

 駅伝使舗設丁 郡并駅家別 4人」

が、規定によって配置されていた。仮にすべての役職が大原郡家にも配置されていたと考えるならば、その郡衙には少なくとも100人以上の男子が勤務していたらしい。


加えて、郡司の役割は『令集解』春時祭田条に

「古記云、春時祭田之日 謂国郡郷里毎村在神、人夫集聚祭、若放祈年祭河歟也 行郷飲酒礼 謂令其郷家備設也」

とあるので、郡司らは「神」を祭る宗教的儀礼にも関与しただろう。その場所は『出雲国風土記』記載の幡屋社であろうが、その比定地は諸説ある。現在、幡屋村にある諏訪神社は、昭和38年(1963)の豪雨で崩壊した後、昭和41年(1966)再建した社殿である。それ以前の元宮(旧社地)は幡屋村宮の谷にある宮山の中腹にあったという。そこには今なお「磐座」と呼ばれる岩群があるのt、その地を聖地として三輪山式の岩石祭祀をしていたと考えるのが自然だろう。

 ところで郡家の主である郡司は郡印を有して、それで公文書(公文・案・調・など)に押印していた。残念ながら「大原郡印」は見当たらないが、平川南氏によると古代の郡印は全国で21個残存している。(平川南「古代郡印論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第79集、国立歴史民俗博物館、1999年3月、457-475頁古代郡印平川南.pdf

幸運の神様のお導きで、仮に「大原郡印」が地中から出土したと仮定するならば、

①法量は5.2センチ四方だと予測する

②その印は隷書体から、8世紀後半に楷書体、その後、つまり8世紀後半に隷書体に戻ったという通説に従って、その印影から郡印の鋳造年代を推定する

という見通しを仮説として提出しておきたい。さらに想像をたくましくするならば、出雲国各郡の郡印は国府の工房で鋳造されたと考えても良いだろう。

 大原郡家に関する全面的な発掘調査が完了しないままであるが、郡家には、

①瓦葺の郡庁(政庁)

が存在した。その遺構は発見されていないものの、

②茅葺の庁舎ー向屋・副屋などか

③正倉(●瓦倉・板倉・土倉・茅葺・掃守蔵・丸太倉・甲倉など)

⇒位置は「倉庫令」参照のこと。倉は50丈(約150m)以内に郡庁などの建築物を建ててはならないとあるので、その郡屋における正倉の位置を推測して、試掘できないだろうか。

④厨屋(饗宴、官衙に勤務する役人の食事など)

⑤宿屋

⑥納屋

⑦備屋

⑧酒屋 




<参考文献>

①山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』塙書房、1994年

②門井直哉「律令時代の郡家立地に関する一考察」『史林』83巻1号、2000年、1-38頁

古代の役所 「上野国新田郡家跡」 - 太田市ホームページ(文化財課)

「新田郡家跡の発掘調査は、郡庁跡が見つかった平成19年度以降、現在まで継続して行われています。これまでの調査の結果、新田郡家は郡庁を中心に正倉が東・北・西に建ち並び、さらにその周りを外郭溝(堀)がめぐる、東西約400m、南北約300m、台形の形をしていたことがわかりました。」

新田郡家の全体図と現在の史跡指定範囲の画像


新田郡家の全体図と現在の史跡指定範囲(平成27年10月7日現在)

新田郡家の用語についてはこちらをクリック。[PDFファイル/247KB]


(1)郡庁(ぐんちょう)

古代新田郡の郡庁は、正殿(せいでん)・前殿(ぜんでん)を中心として長さが50mにもおよぶ長屋建物を東西南北に「ロ」の字形に配置されていたことが発掘調査で明らかとなりました。
郡庁の想定復元図の画像
郡庁の想定復元図(飯塚聡氏作画)

上野国交替実録帳の画像
『上野国交替実録帳(こうずけのくにこうたいじつろくちょう)』の抜粋。平安時代(長元3年 西暦1030年)、上野国の国司(こくし)が交替する際にかわした「引き継ぎ書」の下書きです。「新田郡」の項があり、正倉や郡庁、館、厨といった役所の建物が書かれています。赤線部分は郡庁の長屋建物について書かれています。

発掘調査で見つかった郡庁跡を上から見た図(平成27年現在)の画像
発掘調査で見つかった郡庁跡を上から見た図(平成27年現在)


A 正殿(せいでん)・前殿(ぜんでん)

正殿跡(上空から。平成20年撮影。)の画像
正殿跡(上空から。平成20年撮影。)
郡庁跡の中央に存在する正殿は、東西5間、南北3間の建物があったことや、2回建て替えが行われていたことが調査によってわかっています。

前殿跡(上空から。平成21年撮影。)の画像
前殿跡(上空から。平成21年撮影。)
東西約16.8m、南北約4.2mの建物で、中央が通路になっています。


B 石敷き

調査で見つかった石敷き(南から。平成21年撮影。)の画像
調査で見つかった石敷き(南から。平成21年撮影。)
正殿と前殿の南正面では石敷きが見つかりました。石が直線的に並んでいる状況が写真中央に見られますが、これは正殿と前殿へ向かう通路の縁石であると思われます。


C 長屋建物跡(ながやたてものあと)

調査で見つかった北長屋建物跡(南東から。平成19年撮影。)の画像
調査で見つかった北長屋建物跡(南東から。平成19年撮影。)
地面に丸く空いたところが柱掘りかた(はしらほりかた)で、その穴に柱を建てました。長さが51mにもおよぶ長い建物跡であると想定されます。「柱掘りかた」とは柱を建てるために掘られた大きな穴です。

長屋建物跡の柱掘かたの断面(平成19年撮影。)の画像
長屋建物跡の柱掘かたの断面(平成19年撮影。)
柱掘りかたは、直径約1.2m、深さが約1.0mもあります。柱掘りかたの底近くにある石は、建物の沈下を防ぐために柱の下に入れられたもので、「礎板石(そばんせき)」といいます。


D 掘立柱塀(ほったてばしらべい)

郡庁北西隅の掘立柱塀(西から。平成26年撮影。)の画像
郡庁北西隅の掘立柱塀(西から。平成26年撮影。)

北・西長屋建物の間を、L字形に結ぶようにして塀の柱掘りかたが見つかりました。


E 区画溝

調査で見つかった区画溝(上空から。平成26年撮影。)の画像
調査で見つかった区画溝(上空から。平成26年撮影。)

写真の赤丸が区画溝です。2本の溝の間に柵列と思われる柱穴が並んでいます。溝からは多量の炭化米や炭化材が見つかりました。9世紀後半の郡庁の区画溝であると想定されます。


(2)(3)正倉(しょうそう)

調査で見つかった掘立柱の正倉(西から。平成23年度撮影。)の画像
調査で見つかった掘立柱の正倉(西から。平成23年度撮影。)
郡庁の北約100mの地点で見つかった掘立柱の正倉です。黒褐色の四角い部分が柱掘りかたで、中心部付近に柱が建てられていました。

調査で見つかった正倉(上空から。平成21年撮影。)の画像
調査で見つかった正倉(上空から。平成21年撮影。)
郡庁の北西約80mで見つかった総地業(そうじぎょう。白線の四角い範囲)と、壷地業(つぼじぎょう。白線の丸い部分)の正倉の基礎です。壷地業とは礎石を置く部分だけを土を入れ替えて硬くたたき締める地盤改良の工法です。


(4)外郭溝(堀)

外郭溝の横断面(東から。平成24年撮影。)の画像
外郭溝の横断面(東から。平成24年撮影。)
上面幅(想定)約5.1m、下底幅約3.0m、深さ(想定)約1.7m、断面が逆台形をした幅が広く深い外郭溝が見つかりました。


(5)古い時期の外郭溝(がいかくみぞ)

見つかった古い時期の外郭溝(西から。平成26年撮影。)の画像
見つかった古い時期の外郭溝(西から。平成26年撮影。)

上面幅(想定)約2.2m、下底幅約1.0m、深さ(想定)約0.8mの、断面が逆台形をした古い時期の外郭溝が見つかりました。この外郭溝は途切れている部分があり、そこに出入り口があった可能性があります。


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木簡関連情報

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJBQK29000185
木簡番号1176
本文□〔大ヵ〕原評□□□
寸法(mm)(56)
(5)
厚さ5
型式番号065
出典藤原宮3-1176(荷札集成-168・飛20-28上・飛6-14上(135))
文字説明四文字目の偏は「さんずい」、五文字目の偏は「にすい」または「さんずい」か。サト名を推測すると「海潮」郷が該当するか。
形状上二次的整形、下二次的整形、左二次的整形、右二次的整形。
樹種ヒノキ科♯
木取り板目
遺跡名藤原宮跡東方官衙北地区
所在地奈良県橿原市高殿町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第29次
遺構番号SD170
地区名6AJBQK29
内容分類荷札?
国郡郷里出雲国大原郡大原評
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明四周二次的整形。「大原評」は、『和名抄』の出雲国大原郡にあたる。四文字目の偏は三水、五文字目は二水または三水の文字であることから、「海潮」郷が候補となる。

■研究文献情報



URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK011028000029
木簡番号0
本文□□□出雲国大〈〉\大原郡佐世郷郡司勝部□智麻呂〈〉
寸法(mm)(377)
40
厚さ2
型式番号019
出典東大寺防災-(1769)(日本古代木簡選・木研11-28頁-(29))
文字説明 
形状下欠。
樹種 
木取り 
遺跡名東大寺大仏殿廻廊西地区
所在地奈良県奈良市雑司町
調査主体奈良県立橿原考古学研究所
発掘次数旧境内第9次
遺構番号
地区名
内容分類
国郡郷里出雲国大原郡佐世郷
人名勝部□智麻呂
和暦 
西暦 
木簡説明 

■研究文献情報


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITG11000165
木簡番号0
本文出雲国大原郡矢代里大贄腊壱斗伍升
寸法(mm)190
20
厚さ4
型式番号031
出典城21-32下(353)(木研11-15頁-(90))
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸
所在地奈良県奈良市二条大路南一丁目
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数193E
遺構番号SD4750
地区名6AFITG11
内容分類荷札
国郡郷里出雲国大原郡屋代郷出雲国大原郡矢代里
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明 


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITI11000254
木簡番号0
本文出雲国大原郡矢代里□
寸法(mm)(105)
25
厚さ4
型式番号039
出典城27-20上(286)
文字説明 
形状下欠。
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸
所在地奈良県奈良市二条大路南一丁目
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
発掘次数193F
遺構番号SD4750
地区名6AFITI11
内容分類荷札
国郡郷里出雲国大原郡屋代郷出雲国大原郡矢代里
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明 


https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search?series=%E9%9B%B2%E5%8D%97%E5%B8%82%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8&sort=jtitle%3Ar

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