2024年11月4日月曜日

板楠和子教授と津厨

 板楠和子教授は未知の研究者である。居住地も専門も異なるので、まったく接することはなかった。

しかしながら、最近、板楠和子教授の論文を目にする機会に恵まれた。板楠教授の手堅い考証、篤実な研究姿勢に尊敬の念を以て拝読している。まったく無駄のない行論である。

researchmap.によると、以下の高論をご発表になっているが、ここでは、

「文献から見た海の中道遺跡-太宰府主厨司」

海の中道遺跡をめぐる諸問題 』(福岡市埋蔵文化財調査報告書 、87 集、154-169 頁。1982年  )

を取り上げることとする。この論文の所在は探すに容易ではないが、最近では関連報告書が一括してWEBで閲覧可能となった。
 さて板楠教授の主眼は「太宰府津厨の解明」にある。「厨」の訓みは「久利夜」(『和名抄』)である。『三代実録』貞観十一年(869)十二月五日条に見る、
「鴻臚館井津厨等 離居別虞 尤備禦侮 若有非常 難以応枠 」
ある記事に注目して、太宰府津厨司が置かれた場所の比定に努める。その暫定的な結論は、いささか長文であるものの、横山浩一先生の論と呼応する形で

「では津厨とはどのような施設を指したものであろうか。史料の上から想定される一つは鴻臚館の厨であり、もう一つは太宰府厨戸の厨であろう。前者の場合厨の所在地は鴻臚館の付近に 考えられるが、後者の場合厨戸郷のおかれた糟屋郡沿岸部の可能性が強い。海産物を中心に扱 った厨戸はその採集、処理、加工の過程上、海岸部に作業場を求めざるを得なかったと考えら れる。『万葉集』に数多く登場する志賀海人は、実は津厨に上番して主厨司所用に奉仕してい た厨戸の姿を歌ったものが含まれているのではなかろうか。さらに海の中道遺跡はその立地、 出土遺物。遺構、継続年代の上から見ても、主厨司配下の厨戸や津厨の性格と極めて合致する 点が多い。この海の中道遺跡こそ太宰府津厨の跡ではなかろうか。」(166頁)」とする。

史料の確実な読み込みと積み重ねの上で論証をしながら、許される限りの推測を踏まえて仮説を提示する板楠教授の諭に、私は賛成したい。
なお、蛇足ながら、論の展開の中で、突如として設問が発せられ、それに回答する箇所があるのは、板楠教授への誰か第3者からのご指導の痕跡であろう。そのご指導は板楠論文の「脇の甘さ」を埋め、併せて論文を俯瞰するに適切である。素晴らしい指導者に恵まれたと拝察する。


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