板楠和子教授は未知の研究者である。居住地も専門も異なるので、まったく接することはなかった。
しかしながら、最近、板楠和子教授の論文を目にする機会に恵まれた。板楠教授の手堅い考証、篤実な研究姿勢に尊敬の念を以て拝読している。まったく無駄のない行論である。
researchmap.によると、以下の高論をご発表になっているが、ここでは、
「文献から見た海の中道遺跡-太宰府主厨司」
『海の中道遺跡をめぐる諸問題 』(福岡市埋蔵文化財調査報告書 、87 集、154-169 頁。1982年 )
を取り上げることとする。この論文の所在は探すに容易ではないが、最近では関連報告書が一括してWEBで閲覧可能となった。
さて板楠教授の主眼は「太宰府津厨の解明」にある。「厨」の訓みは「久利夜」(『和名抄』)である。『三代実録』貞観十一年(869)十二月五日条に見る、
「鴻臚館井津厨等 離居別虞 尤備禦侮 若有非常 難以応枠 」
ある記事に注目して、太宰府津厨司が置かれた場所の比定に努める。その暫定的な結論は、いささか長文であるものの、横山浩一先生の論と呼応する形で
「では津厨とはどのような施設を指したものであろうか。史料の上から想定される一つは鴻臚館の厨であり、もう一つは太宰府厨戸の厨であろう。前者の場合厨の所在地は鴻臚館の付近に
考えられるが、後者の場合厨戸郷のおかれた糟屋郡沿岸部の可能性が強い。海産物を中心に扱
った厨戸はその採集、処理、加工の過程上、海岸部に作業場を求めざるを得なかったと考えら
れる。『万葉集』に数多く登場する志賀海人は、実は津厨に上番して主厨司所用に奉仕してい
た厨戸の姿を歌ったものが含まれているのではなかろうか。さらに海の中道遺跡はその立地、
出土遺物。遺構、継続年代の上から見ても、主厨司配下の厨戸や津厨の性格と極めて合致する
点が多い。この海の中道遺跡こそ太宰府津厨の跡ではなかろうか。」(166頁)」とする。
史料の確実な読み込みと積み重ねの上で論証をしながら、許される限りの推測を踏まえて仮説を提示する板楠教授の諭に、私は賛成したい。
なお、蛇足ながら、論の展開の中で、突如として設問が発せられ、それに回答する箇所があるのは、板楠教授への誰か第3者からのご指導の痕跡であろう。そのご指導は板楠論文の「脇の甘さ」を埋め、併せて論文を俯瞰するに適切である。素晴らしい指導者に恵まれたと拝察する。
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- 九州ルーテル学院大学VISIO (29) 11-26 2002年
- 『柳町遺跡Ⅰ』熊本県文化財調査報告書第200集 275-282 2001年
- 九州ルーテル学院大学 VISIO No.29 149-156 2000年
- 九州ルーテル学院大学VISIO 25 27-36 1998年
- 『企画展示 古代の碑』 国立歴史民俗博物館 95-97 1997年
- 季刊考古学 雄山閣 (57) 66-69 1996年
- 熊本県荒尾市文化財報告書 7 38-61 1992年
- 『交流の考古学』三島格先生古稀記念論文集 513-533 1991年
- 福岡市埋蔵文化財調査報告書 87 154-169 1982年
- 熊本県宇土市埋蔵文化財調査報告書 3 93-112 1981年
- 熊大国史論叢 2 33-72 1972年
- 熊本史学 35,36/合併,1-15 1970年
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