『養老令』軍防令に
「軍防令六五 東邊條:凡緣東邊北邊西邊諸郡人居。皆於城堡內安置。其營田之所。唯置庄舍、至農時堪營作者。出就庄田。收斂訖勒還。其城堡崩頹者。役當處居戶隨閑修理。」(東辺、北辺、西辺にある諸郡の人居は、皆、城堡に安置せよ。其の営田の所は唯庄舎を置け。農事に至り、営作に堪えたる者は出でて庄田に就け。収斂<収穫>訖り、牛馬を収めたならば<勒>、城堡に還ること。その城堡が崩頹したならば、當處の居戶を役して閑に修理せよ。)
とある記事を思い浮かべる。
北辺や東辺は陸奥や出羽であろうが、西辺は薩摩・大隅・日向を示すと考えてよい。
とすれば、薩摩守大伴家持が実見した村落とは、柵戸制であったと考えたい。つまり、肥後国人を薩摩に移配し、その農民を準戦闘員として城郭に安居させて、隼人と対峙させたと想定できないだろうか。
思い付きに過ぎないが、『続日本紀』天平2年3月条にある
「辛卯,大宰府言:「大隅、薩摩兩國百姓,建國以來,未曾班田。其所有田,悉是墾田。相承為佃,不願改動。若從班授,恐多喧訴。」於是,隨舊不動,各令自佃焉。」
の記事を理解するには、どのような考古学的発掘成果が必要だろうか。
周知の記事であるが、やはり『続日本紀』大宝2年(702)条の
「冬十月,
丁酉,先是,征薩摩隼人時,禱祈大宰所部神九處,實賴神威,遂平荒賊。爰奉幣帛,以賽其禱焉。
唱更國司等(今薩摩國也)、言、於國內要害之地,建柵置戍守之。許焉。」
「六月、丁亥(3日)、日向・大隅・薩摩三國、大風。桑麻損盡。詔,勿收柵戶調庸(詔して柵戶の調庸を収むること勿からしめたまふ)。」
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