574番~575番
大納言大伴卿の和ふる歌2首
574 ここにして筑紫や何處白雲のたなびく山の方にしあるらし
575 草香江の入り江に求食る葦鶴のあなたづたづし友無しにして
(1)
ここにして
原文「此間在而」は、「ここにありて」とも解する説もあり。大系が指摘するように、「此間為而」(『万葉集』287)とか「此間◆之氐」(『万葉集』4207)とあるに従う
(2)「何處」
今は、「いづく」と読む。論者によっては、「いづち」の説あり。「愛し妹を伊都知由可米等」(『万葉集』、3577)が傍証である。『万葉集』には、
ここにして家八方何處白雲のたなびく山を越えて来にけり(『万葉集』、287)
ここにありて春日也何處雨障み出でて行かねば恋ひつつそ居る(『万葉集』、1570)
などが、同様な発想で作られた歌である。
(3)「山の方にしあるらし」
この句の「し」は、係助詞とみるには弱いので、副助詞ていどの機能を持っていたらしい。「し」の直前の「山の方」を強調するに用いられていたと考えておきたい。
「独り居てもの思ふ夕に霍公鳥此間ゆ鳴き渡る心しあるらし」(『万葉集』、1476)
「梅の花散らす冬嵐の音のみに聞きし吾が妹を見らくしよしも」(『万葉集』、1660)
(4)草香江
難波津は国家的な湊として、軍事・物資・外交など水上交通のターミナルであった。大宰府に來着した朝鮮半島などからの外国人使節、そして大宰府・西国などの官人などが瀬戸内海を往来し、国内各地からの献納物の集散地でもあった。
『万葉集』巻6には、「5年癸酉、草香山を越ゆる時に、神社忌寸老磨の作る歌」という題詞に「直越のこの道にして押し照るや難波の海と名づけけらしも」があり、同書巻8に収める長歌に「おし照る 難波を過ぎて うちなびく 草香の山を 夕暮に わが越え来れば」とみえる。
なお難波の草香江は、難波から奈良への各種のルートの中で、最短の奈良街道の起点であった。
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