2023年8月28日月曜日

太宰帥の7つの謎-その1

 大宰府の長官は「帥」(そつ)。

竹内理三氏の高論「大宰府政所考」(『史淵』第71輯、 1956年)では、大宰府に存在した所司のリストを作成して、

 *学校院・兵馬所(兵馬司)・蕃客所・主厨司・主船司・匠司・修理器仗所・防人司・)博多) 警固所・大野城司・蔵司・税司・大帳所・公文所・薬司・貢上染物所・作紙所・貢物所・政所」

に、さらには神司、客館、鴻臚館 (筑紫館)、駅館に加えて、九州各国の出先機関も存在しただろう。

主神一人…掌諸祭祀事 

 帥一人…掌祠社戸口籍帳、字養百姓、勧課農桑、糺察所部、貢挙、孝義、田宅、良賤、 訴訟、租調、倉稟、徭役、兵士、器仗、鼓吹、郵駅、伝馬、烽候、城牧、 過所、公私馬牛、蘭遺雑物、及寺、僧尼名籍、蕃客、帰化、饗讌事 

大弐一人…掌同帥 

 少弐二人…掌同大弐 

 大監二人…掌糺判府内、審署文案、勾稽失、察非違 

 少監二人…掌同大監 

 大典二人…掌受事上抄、勘署文案、検出稽失、読申公文 

 少典二人…掌同大典 

 大判事一人…掌案覆犯状、断定刑名、判諸争訟 

 少判事一人…掌同大判事 

 大令史一人…掌抄写判文 

 少令史一人…掌同大令史 

 大工一人…掌城隍、戎器、舟檝、諸営作事 

 少工二人…掌同大工 

 博士一人…掌教授経業、課試学生 

 陰陽師一人…掌占筮相地 

 医師二人…掌診候、療病 

 算師一人…掌勘計物数 

 防人正一人…掌防人名帳、戎具、教閲、及食料田事 

 佑一人…掌同正 

 令史一人 - 

 主船一人…掌修理舟檝 

 主厨一人…掌醯、醢、韰、葅、醤、豉、鮭等事 

 史生廿人 

等の役人で大宰府の行政を運営・維持していた。

 例えば、「蕃客所」に関しては、

*「大宰府蕃客所注進状案客所 注進呉楽所」(東大寺文書(大日本古文書)架番号:8500-05、東大寺文書5,329頁)

などとある。大宰府の特徴は「蕃客所・主船司・防人司・ 警固所・大野城司」などにあるように、

*「対外交渉と軍事」機能

である。

さて、大きく横道にそれたが、本論に戻れば、

*謎:天平12年(740)に大宰少弐藤原広嗣の乱以降も、なぜ、藤原広嗣の兄弟たちが太宰帥に任命されたか

である。藤原式家の宇合の長男広嗣が天皇に反旗を翻したことは、誰もが知る周知の事実である。

それにもかかわらず、長男広嗣・次男良嗣・三男田麻呂・四男綱手・五男田麻呂・八男百川・九男蔵下麻呂(ただし、この順に関して異説あり)の内、「八男百川・九男蔵下麻呂」が相次いで太宰帥に任ぜられている。いわば反乱者広嗣の兄弟二人は太宰帥に「潜れ混んでいる」ことは興味が惹かれる。くわえて、大宰大弐として藤原朝臣田麻呂も考慮に入れてよいだろう。


大宰帥
石上麻呂大宝2年8月16日702年9月12日)任
⇒左大臣石上麻呂の娘が石上国盛(国守)であり、国盛は藤原宇合の妻、、
大納言正三位大宝4年1月7日704年2月16日)任右大臣
大伴宿祢安麻呂慶雲2年11月14日705年12月18日)任
「従四位上巨勢朝臣多益首為大弐」
大納言・従三位和銅元年3月13日708年4月8日)任大納言?
粟田朝臣真人和銅元年3月13日(708年4月8日)任
⇒「従四位上巨勢朝臣多益首為大弐」
中納言・従三位
多治比真人池守和銅8年5月22日715年6月27日)任
⇒第8次遣唐使の押使、従四位下。この時宇合は正六位下で、遣唐使副使。
従三位養老2年3月10日718年4月15日)任中納言
大伴旅人神亀5年6月728年8月)見[3] -中納言・正三位天平3年7月25日731年8月31日
藤原武智麻呂天平3年9」月27日(731年11月1日)任大納言・正三位天平6年1月17日734年2月24日)任右大臣
藤原宇合前太宰帥石上麻呂の娘国盛大刀自との間に誕生した長子が藤原広嗣。参議式部卿・正三位天平9年8月5日737年9月3日)薨

天平14年1月5日742年2月14日) - 天平17年6月5日745年7月8日)の間、大宰府は一時廃止
橘宿祢諸兄天平18年4月5日746年4月29日)任
*左大臣と兼官、遙任。
左大臣従一位天平勝宝2年2月750年4月)見 -
藤原朝臣乙麻呂天平勝宝2年10月1日(750年11月4日)任
*    藤原武智麻呂の3男。妻は橘諸兄の弟・橘佐為の4女・真都我(『尊卑分脈』)
「《天平勝宝2年(750)3月庚子【12】》○庚子。正五位上多治比真人国人。
藤原朝臣乙麻呂並為大宰少弐。」⇒太宰帥は京。大弐は欠員。大宰府の責任者は多治比真人国人と
藤原朝臣乙麻呂が実質的な責任者。
「詔、授正五位上藤原朝臣乙麻呂従三位。任大宰帥。以八幡大神教也。」
⇒天平勝宝2年に乙麻呂は5階も昇進した上に、「少弐から帥」へ栄転。
従三位
紀朝臣麻路天平勝宝4年9月7日752年10月18日)任
「《天平勝宝4年(752)9月庚戌【甲辰朔七】》
○『続日本紀』「九月庚戌。中納言従三位紀朝臣麻路為兼大宰帥。」
中納言・従三位
石川年足天平勝宝5年9月28日753年10月28日)任
「《天平勝宝55年(753 )9月乙丑【廿八】》○乙丑。
従四位上石川朝臣年足。授従三位。為大宰帥。
従四位上紀朝臣飯麻呂為大弐。」
「《天平宝字六年(七六二)九月乙巳【丙子朔三十】》○九月乙巳。
御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等石川朝臣年足薨。時年七十五。
詔、遣摂津大夫従四位下佐伯宿禰今毛人。信部大輔従五位上大伴宿禰家持。弔賻之。
年足者。後岡本朝大臣大紫蘇我臣牟羅志曾孫。平城朝左大弁従三位石足之長子也。
率性廉勤。習於治体。起家補少判事。頻歴外任。
天平七年。従五位下。任出雲守。視事数年。百姓安之。聖武皇帝善之。
賜絁卅疋。布六十端。当国稲三万束。十九年。至従四位下春宮大夫兼左中弁。
拝参議。勝宝五年、授従三位。累遷至中納言兼文部卿神祇伯。公務之閑。唯書是悦。
宝字二年、授正三位。転御史大夫。時勅公卿、各言意見。仍上便宜。作別式廿巻。
各以其政、繋於本司。雖未施行。頗有拠用焉。」
⇒藤原朝臣仲麻呂を支持するグループ。
参議・従三位天平勝宝9歳6月16日757年7月6日)遷兵部卿
船王[4]- 天平勝宝9歳7月庚戌(4日)(757年7月
⇔淳仁天皇の兄、藤原仲麻呂派の一員。
⇒淳仁天皇の淡路国追放、天平神護元年(765)10月に薨去。
⇒配流先は丹後国。復権は宝亀2年(771)5月。
正四位下・三品天平宝字4年1月4日760年1月26日)遷信部卿
藤原朝臣真楯天平宝字4年1月4日(760年1月26日)任
「従三位藤原朝臣真楯為大宰師。」
⇒『続日本紀』「正一位太政大臣房前之第三子也。真楯、度量弘深。有公輔之才」
⇒『続日本紀』「《天平神護二年(七六六)三月丁卯【十二】》○丁卯。大納言正三位藤原朝臣真楯薨。
平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。真楯、度量弘深。有公輔之才。起家春宮大進。
稍遷至正五位上式部大輔兼左衛士督。在官公廉。慮不及私。感神聖武皇帝、寵遇特渥。
詔、特令参奏宣吐納。明敏有誉於時。従兄仲満、心害其能。真楯知之。称病家居。頗翫書籍。
天平末、出為大和守。
勝宝初、授従四位上。拝参議。累遷信部卿兼大宰帥。
于時。渤海使楊承慶、朝礼云畢。欲帰本蕃。真楯設宴餞焉。承慶甚称歎之。
宝字四年授従三位。更賜名真楯。本名八束。八年、至正三位勲二等兼授刀大将。
神護二年、拝大納言兼式部卿。薨時、年五十二。
賜以大臣之葬。使民部卿正四位下兼勅旨大輔侍従勲三等藤原朝臣縄麻呂。
右少弁従五位上大伴宿禰伯麻呂弔之。
是日。以中納言正三位吉備朝臣真備為大納言」

⇒藤原房前と母牟漏女王の第3子。霊亀元年(715)生まれ。本名は「八束」。
天平宝字2年8月の淳仁天皇の信をえて、第6子「御楯」(本名:千尋)と共に「真楯」と改名。
天平12年正月に従五位下、天平13年7月に右衛士督、天平15年6月に式部大輔、左少弁を経て、
天平16年11月に従四位下、天平18年9月に大倭守、天平19年3月に治部卿に、そして天平20年3月に参議へと駆け上っている。
天平宝字2年8月に中務卿に、そして天平宝字4年正月に太宰帥へと任命された。
参議・従三位天平宝字6年12月1日762年12月20日)任中納言
藤原恵美真
(もしくは光)
天平宝字6年12月1日(762年12月20日)任
*藤原仲麻呂の男子。
「《天平宝字六年(七六二)十二月乙巳朔》
○十二月乙巳朔。授従四位上藤原恵美朝臣真光正四位上。
以御史大夫正三位文室真人浄三為兼神祇伯。従三位氷上真人塩焼。
従三位諱。従三位藤原朝臣真楯為中納言。真楯為兼信部卿。
正四位上藤原恵美朝臣真光為大宰帥。
正四位上天平宝字8年9月18日764年10月17日)伏誅
藤原朝臣宿奈麻呂天平宝字8年10月3日(764年10月31日)任

⇔<藤原宇合の第2子、広嗣の弟、後に良継と改名>
⇒『続日本紀』《天平宝字8年(764)10月丙寅【3】》○丙寅。授従四位下藤原朝臣宿奈麻呂正四位上。
従五位上石上朝臣宅嗣正五位上。」以正五位上石上朝臣宅嗣為常陸守。従五位下三川王為信濃守、
従五位上佐伯宿禰美濃麻呂為出羽員外守。正四位上藤原朝臣宿奈麻呂為大宰帥。従五位下采女朝臣浄庭為少弐。
→『続日本紀』「《神護景雲元年(七六七)二月戊申【廿八】》○戊申。~~従四位下藤原朝臣楓麻呂為大宰大弐。」
正四位上
藤原朝臣豊成天平神護元年8月23日765年9月12日)任
⇔「而左降大臣為大宰員外帥。」
⇔「『続日本紀』《天平宝字8年(764)9月戊申【14】》
○戊申。以大宰員外帥正二位藤原朝臣豊成。」
⇒藤原南家。藤原武智麻呂の長男。「
⇒『続日本紀』「《神護景雲元年(七六七)八月丙午【廿九】》○丙午。~~従五位上大伴宿禰家持並為大宰少弐。」
正四位下- 天平神護元年閏10月(765年11月)見 -
弓削浄朝臣清人神護景雲2年11月13日768年12月26日)任
⇒『続日本紀』「《神護景雲二年(七六八)十一月癸未【十三】》○癸未。~~大納言衛門督正三位弓削御浄朝臣清人為兼大宰帥。
従四位上藤原朝臣田麻呂為大弐。」
⇒道鏡の実弟。
大納言衛門督正三位神護景雲4年8月22日770年9月15日配流
藤原朝臣宿奈麻呂宝亀元年8月22日(770年9月15日)還任
⇒『続日本紀』「《宝亀元年(770)8月辛亥【22】》○辛亥。以従五位上阿倍朝臣東人為中務大輔。従五位上日置造簑麻呂為図書頭。
従四位下藤原朝臣楓麻呂為伊勢守。従五位下桑原王為下野員外介。従四位上左中弁内竪大輔内匠頭右兵衛督藤原朝臣雄田麻呂為兼越前守。
式部大輔従四位下藤原朝臣家依為兼丹波守。従五位下文室真人高嶋為備中守。従五位下大伴宿禰東人為周防守。
参議従三位兵部卿兼造法華寺長官藤原朝臣宿奈麻呂為大宰帥。
従三位神護景雲4年9月16日(770年10月9日)遷式部卿
石上朝臣宅嗣神護景雲4年9月16日(770年10月9日)任
「宝亀初。出為大宰帥」
⇒『続日本紀』「《宝亀元年(770)9月乙亥【16】》○乙亥。以従五位下石川朝臣真守為少納言。従五位上大伴宿禰家持為左中弁兼中務大輔。
従五位下橘宿禰綿裳為少輔。従三位藤原朝臣宿奈麻呂為式部卿。造法華寺長官如故。近衛大将従三位藤原朝臣蔵下麻呂為兼兵部卿。従五位上阿倍朝臣東人為宮内大輔。
中務少輔従五位下橘宿禰綿裳為兼山背守。従五位下豊国真人秋篠為甲斐守。従五位上榎井朝臣子祖為上総守。従四位下藤原朝臣乙縄為美作守。従五位上巨勢朝臣公成為長門守。
従三位石上朝臣宅嗣為大宰帥。正四位下坂上大忌寸苅田麻呂為陸奥鎮守将軍。
⇒石川麻呂の孫、石川乙麻呂の子。
従三位宝亀2年3月13日771年4月2日)遷式部卿
藤原百川宝亀2年3月13日(771年4月2日)任
「正四位下藤原朝臣百川〈本名雄田麻呂〉為大宰帥」
⇒『続日本紀』「百川平城朝参議正三位式部卿兼大宰帥宇合之第八子也。幼有器度。歴位顕要。
宝亀九年。至従三位中衛大将兼式部卿。所歴之職各為勤恪。天皇甚信任之。委以腹心。内外機務莫不関知。」
⇒天平4年生。母は久米若売。天平11年3月、右大臣橘諸兄の讒言で、藤原広嗣の叔父である石上乙麻呂は久米若売とのスキャンダルで土佐国に配流となる。
⇒藤原式家
正四位下
藤原朝臣蔵下麻呂宝亀5年5月14日(771年6月30日)任
⇒『続日本紀』「秋七月壬辰朔。参議大宰帥従三位勲二等藤原朝臣蔵下麻呂薨。平城朝参議正三位式部卿大宰帥馬養之第九子也」
⇒藤原宇合の子、天平6年生。
⇒藤原式家
従三位宝亀6年7月1日775年8月1日
藤原朝臣魚名宝亀8年10月13日777年11月17日)任
⇒藤原北家、藤原朝臣房前の第5子
⇒「大納言近衛大将従二位藤原朝臣魚名為兼大宰帥」
⇒『続日本紀』「《宝亀八年(七七七)十月辛卯【十三】》○辛卯。正四位上藤原朝臣家依為参議。正五位下高賀茂朝臣諸雄為神祇大副。
参議正四位上藤原朝臣是公為兼左大弁。春宮大夫左衛士督侍従如故。正四位下田中朝臣多太麻呂為右大弁。従五位上美和真人土生為右少弁。
中納言従三位物部朝臣宅嗣為兼中務卿。従四位下鴨王為左大舍人頭。従五位下宗形王為右大舍人頭。従五位下藤原朝臣末茂為図書頭。
従五位下百済王仙宗為助。従五位下賀茂朝臣大川為内蔵助。参議従三位藤原朝臣百川為兼式部卿。右兵衛督如故。神祇伯従四位下大中臣朝臣子老為兼大輔。
従五位下藤原朝臣真葛為散位頭。従五位下安倍朝臣謂奈麻呂為治部少輔。正五位上多治比真人長野為民部大輔。従五位下多朝臣犬養為少輔。
従五位上当麻真人永嗣為大判事。従四位下神王為大蔵卿。従五位下安倍朝臣草麻呂為斎宮長官。従四位下石川朝臣名足為造東大寺長官。
従五位下紀朝臣門守為鋳銭次官。従五位下藤原朝臣長河為中衛少将。従五位下大中臣朝臣諸魚為衛門佐。従五位下百済王仁貞為員外佐。
従五位下紀朝臣弟麻呂為左衛士員外佐。外従五位下大荒木臣押国為遠江介。参議右衛士督従四位下藤原朝臣小黒麻呂為兼常陸守。正五位下粟田朝臣鷹守為介。
従五位上紀朝臣家守為美濃守。従五位下安倍朝臣笠成為越中守。従五位下広川王為因幡守。右大弁正四位下田中朝臣多太麻呂為兼出雲守。従五位下藤原朝臣仲継為播磨介。従五位上田中王為伊予守。
大納言近衛大将従二位藤原朝臣魚名為兼大宰帥。従四位上石上朝臣息嗣為大弐。従五位下笠朝臣名麻呂為少弐。

⇒『公家補任』や『尊卑分脈』には養老5年生まれ。母は藤原房前の異母妹の片野朝臣であるという。天平20年2月に正六位上から従五位下に、天平勝宝元年11月に宇佐八幡宮神の入京迎神使、その後、備中守
上総守などを歴任、天平神護2年11月に従三位に。宮内卿や大蔵卿を経て、神護景雲(768)2月に参議。その後、宝亀元年10月に正三位、宝亀2年3月に大納言、それ以降は近衛大将に任じられる。
宝亀8年10月13日777年11月17日)任「大納言近衛大将従二位藤原朝臣魚名為兼大宰帥」。宝亀9年3月に内臣、宝亀10年正月に内大臣となる。天応元年(781)正月に正二位、天応元年6月に左大臣・大宰帥に任命されたが、
延暦元年(天皇2年、782)6月に左大臣を免職され、太宰帥に派遣される。
『続日本紀』「
《延暦元年(782)6月乙丑【14】》○乙丑。左大臣正二位兼大宰帥藤原朝臣魚名。坐事免大臣。」
問題は、この「延事免大臣」の解釈である。そうでなければ、左降さるはずがない。想像するに、延暦元年閏正月に発生した氷上川継事件と無関係ではないはずである。

大納言・従二位- 宝亀10年1月779年1月)見 -
藤原朝臣浜成天応元年4月17日781年5月14日)任
⇒藤原京家の藤原麻呂の長男
⇒『歌経標式』や『天書』の著者
⇒大宰府着任するや、天応元年(781)6月16日に員外帥に。
『続日本紀』「《天応元年(781)6月癸卯【16】》○癸卯。授外従五位下土師宿禰古人従五位下。
降大宰帥従三位藤原朝臣浜成為員外帥。〓仗之員。限以三人。
仍勅大弐正四位上佐伯宿禰今毛人等曰。三考黜陟。前王通典。懲悪勧善。往聖嘉訓。
帥参議従三位兼侍従藤原朝臣浜成。所歴之職。善政無聞。今受委方牧。寄在宣風。若不懲粛。何得後効。仍貶其任。
補員外帥。宜莫預釐務。但公廨者賜帥三分之一。府中雑務。一事已上。今毛人等行之。」
とあり、大宰大弐の佐伯朝臣今毛人に対して「一事已上。今毛人等行之。」を命じた。
⇒この藤原朝臣浜成の人事案件は、光仁天皇薨去後二か月経て勃発した氷上川継事件(延暦元年<782>閏正月甲午)とも関連する。
『続日本紀』「《延暦元年(782)閏正月辛丑【18】》○辛丑。勅大宰府。氷上川継謀反入罪。員外帥藤原朝臣浜成之女為川継妻。
思為与党。因茲解却浜成所帯参議并侍従。但員外帥如故。」とあり、藤原朝臣浜成は氷上川継の妻藤原法壱の父であり、しかも息子と
継彦も謀反に加担(「男(嗣彦)も支党となり」)したために、太宰員外帥を残して、参議や侍従は解任されている。
参議・従三位天応元年6月16日(781年7月11日)左降員外帥
藤原朝臣魚名天応元年6月27日(781年7月22日)還任
⇒藤原北家
左大臣正二位延暦2年7月25日783年8月27日)薨
藤原朝臣継縄延暦4年7月6日785年8月15日)任
「其種継参議式部卿兼大宰帥正三位宇合之孫也。」
大納言正三位延暦5年4月11日786年5月13日)遷民部卿
佐伯宿祢今毛人            
延暦5年4月11日(786年5月13日)任

⇒『続日本紀』「《延暦五年(786)4月庚午【庚申朔11】》○夏四月庚午。詔日。諸国所貢。庸調支度等物。毎有未納。
交闕国用。積習稍久。為弊已深。良由国宰郡司逓相怠慢。遂使物漏民間用乏官庫。又其莅政治民。多乖朝委。廉平称職。百不聞一。
漁潤身。十室而九。忝曰官司。豈合如此。宜量其状迹。随事貶黜。其政績有聞。執掌無廃者。亦当甄録擢以顕栄。所司宜詳沙汰。
明作条例奏聞。於是。太政官商量。奏其条例。撫育有方戸口増益。勧課農桑積実倉庫。貢進雑物依限送納。粛清所部盗賊不起。
剖断合理獄訟無寃。在職公平立身清慎。且守且耕軍糧有儲。辺境清粛城隍修理。若有国宰郡司。鎮将辺要等官。到任三年之内。
政治灼然。当前二条已上者。五位已上者量事進階。六位已下者擢。之不次。授以五位。在官貪濁処事不平。肆行姦猾以求名誉。
畋遊無度擾乱百姓。嗜酒沈湎廃闕公務。公節無聞。私門日益。放縦子弟請託公行。逃失数多克獲数少。統摂失方戍卒違命。
若有同前群官不務職掌。仍当前一条已上者。不限年之遠近。解却見任。其違乖撫育勧課等条者。亦望准此而行之。奏可之。
授正三位藤原朝臣継縄従二位。従四位上石川朝臣豊人為中宮大夫。中納言左大弁従三位石川朝臣名足為兼皇后宮大夫。播磨守如故
。大納言従二位藤原朝臣継縄為兼民部卿。東宮傅如故。参議正三位佐伯宿禰今毛人為大宰帥。

⇒『続日本紀』「《天平宝字八年(七六四)正月己未【廿一】》○己未  ~~    
   従四位上佐伯宿禰毛人為大宰大弐。~~従五位上石上朝臣宅嗣為少弐。従四位下佐伯宿禰今毛人為営城監

⇒『続日本紀』「

桓武天皇延暦9年(790)10月3日、佐伯宿祢今毛人の薨伝は、次の通りである。

『続日本紀』「《延暦9年(790)10月乙未【三】》○乙未。散位正三位佐伯宿禰今毛人薨。右衛士督従五位下人足之子也。天平十六年。聖武皇帝。発願始建東大寺。徴発百姓。方事営作。今毛人為領催検。頗以方便勧使役民。聖武皇帝。録其幹勇。殊任使之。勝宝初。除大和介。俄授従五位下。累遷。宝字中至従四位下摂津大夫。歴播磨守大宰大弐左大弁皇后宮大夫。延暦初授従三位。尋拝参議。加正三位。遷民部卿。皇后宮大夫如故。五年出為大宰帥。居之三年。年及七十。上表乞骸骨。詔許之。薨時年七十二。」

                                


未定稿


*************

しずおか文化財ナビ 聖武天皇勅書(天平感宝元年閏五月廿日)|静岡県公式ホームページ (pref.shizuoka.jp) よりの引用


橘諸兄の太宰帥に関する資料


<2023年9月15日アクセス>

しずおか文化財ナビ 聖武天皇勅書(天平感宝元年閏五月廿日)

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ページID1021614  更新日 2023年1月20日

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写真:聖武天皇勅書(天平感宝元年閏五月廿日)

よみ
しょうむてんのうちょくしょ
指定区分、指定種別
国指定/有形文化財 ・ 国宝/書跡・典籍・古文書
指定日
1952年3月29日
員数
1巻
所在地
静岡県牧之原市大江459
一般公開有無
駐車場の有無
公開情報

所有者情報

  • 平田寺
  • 〒421-0512 静岡県牧之原市大江459

文化財の説明

天平感宝元(749)年閏五月廿日に聖武天皇が下した勅書。『続日本紀』によると、聖武天皇は天下太平と万民和楽を祈願するため、東大寺など十二大寺に絁、綿、墾田等を寄進した。本文書は、このときの施入願文で、現存する事例はこの平田寺所蔵のものが唯一とされる。また、勅の大字は、聖武天皇の宸筆である。聖武天皇ひいては奈良時代の宸翰は、聖武天皇宸翰雑集(正倉院宝物)など数えるほどしかなく、歴史的にも美術的にも大変貴重なものである。


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< 参考記事:  大宰帥 - Wikipedia*> <2023年8月23日アクセス>に一部補筆
大宰帥
石上麻呂大宝2年8月16日702年9月12日)任大納言正三位大宝4年1月7日704年2月16日)任右大臣
大伴宿祢安麻呂慶雲2年11月14日705年12月18日)任
「従四位上巨勢朝臣多益首為大弐」
大納言・従三位和銅元年3月13日708年4月8日)任大納言?
粟田朝臣真人和銅元年3月13日(708年4月8日)任
「従四位上巨勢朝臣多益首為大弐」
中納言・従三位
多治比真人池守和銅8年5月22日715年6月27日)任従三位養老2年3月10日718年4月15日)任中納言
大伴旅人神亀5年6月728年8月)見[3] -中納言・正三位天平3年7月25日731年8月31日
藤原武智麻呂天平3年9」月27日(731年11月1日)任大納言・正三位天平6年1月17日734年2月24日)任右大臣
藤原宇合参議式部卿・正三位天平9年8月5日737年9月3日)薨
天平14年1月5日742年2月14日) - 天平17年6月5日745年7月8日)の間、大宰府は一時廃止
橘宿祢諸兄天平18年4月5日746年4月29日)任左大臣従一位天平勝宝2年2月750年4月)見 -
藤原朝臣乙麻呂天平勝宝2年10月1日(750年11月4日)任

従三位
紀朝臣麻路天平勝宝4年9月7日752年10月18日)任中納言・従三位
石川年足天平勝宝5年9月28日753年10月28日)任参議・従三位天平勝宝9歳6月16日757年7月6日)遷兵部卿
船王[4]- 天平勝宝9歳7月庚戌(4日)(757年7月) -正四位下・三品天平宝字4年1月4日760年1月26日)遷信部卿
藤原朝臣真楯天平宝字4年1月4日(760年1月26日)任

参議・従三位天平宝字6年12月1日762年12月20日)任中納言
藤原恵美真天平宝字6年12月1日(762年12月20日)任

正四位上天平宝字8年9月18日764年10月17日)伏誅
藤原朝臣宿奈麻呂天平宝字8年10月3日(764年10月31日)任正四位上
石川朝臣豊成天平神護元年8月23日765年9月12日)任正四位下- 天平神護元年閏10月(765年11月)見 -
弓削御浄朝臣清人神護景雲2年11月13日768年12月26日)任

大納言衛門督正三位神護景雲4年8月22日770年9月15日配流
藤原朝臣宿奈麻呂神護景雲4年8月22日(770年9月15日)還任従三位神護景雲4年9月16日(770年10月9日)遷式部卿
石上朝臣宅嗣神護景雲4年9月16日(770年10月9日)任

従三位宝亀2年3月13日771年4月2日)遷式部卿
藤原百川宝亀2年3月13日(771年4月2日)任

正四位下
藤原朝臣蔵下麻呂宝亀5年5月14日(771年6月30日)任

従三位宝亀6年7月1日775年8月1日
藤原朝臣魚名宝亀8年10月13日777年11月17日)任

大納言・従二位- 宝亀10年1月779年1月)見 -
藤原朝臣浜成天応元年4月17日781年5月14日)任参議・従三位天応元年6月16日(781年7月11日)左降員外帥
藤原朝臣魚名天応元年6月27日(781年7月22日)還任左大臣正二位延暦2年7月25日783年8月27日)薨
藤原朝臣継縄延暦4年7月6日785年8月15日)任

大納言正三位延暦5年4月11日786年5月13日)遷民部卿
佐伯宿祢今毛人延暦5年4月11日(786年5月13日)任

参議・正三位延暦8年1月9日789年2月8日致仕

参議・正四位下



参考記事2)国司の業務範囲(『福井県史』)

国司の職務内容については、養老職員令に記されているが、八世紀初頭に施行された大宝令もほぼ同様であったと考えられる。
(1)民政関係(戸籍計帳による人民の把握とその生活の維持、農業の指導、田地・宅地
  の把握、良賎の身分の把握)
(2)財政関係(租税の徴収や徭役の徴発、調庸などの運搬、租税を収納する倉庫その他
  の官庫の管理)
(3)警察・裁判・軍事関係(国内の治安維持、裁判、兵士の徴発、軍団の人事、兵器や軍
  事施設の管理)
(4)交通関係(駅や伝馬の監督、関所通行証としての過所の発給)
(5)宗教行政(神社や僧尼名簿の管理)
(6)その他(学生の推挙、道徳的に優れた者の表彰、牧・馬牛・遺失物の管理・調査)
 以上が国司一般の職掌であるが、陸奥・出羽・越後などの国司には、「蝦夷」に対する帰順のための食・禄の支給、征討などの仕事が加わり、壱岐・対馬・日向・薩摩・大隅などの国については、辺境防衛、外国使者や帰化に関する仕事があった。また愛発関を擁する越前

出典:https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/4-01-01-02-10.htm






















































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