2023年8月20日日曜日

沙彌満誓は「罪な男」、笠朝臣麻呂のこと

沙彌満誓

笠氏の出身。父母等は未詳。俗名は麻呂。
笠臣氏は香屋臣・三野臣・苑臣らをはじめとする吉備豪族連合の始祖である吉備津日子の伝承を持つ。
 後代の資料であるが、『三代実録』元慶3年(879)10月22日条に
*「右京人左大史正六位上印南野臣宗雄、男3人、女1人、妹一人、賜姓笠朝臣、其先、出自吉備武彦也
とある。
そして、『古事記』に、
*「大吉備津日子の命と若建吉備津日子の命との二柱相副ひて針間の氷河の前に忌甕を居ゑて、針間の口として、吉備の国を言向け和しき」
とある「氷河」(兵庫県加古川市付近)を中心として、吉備国を支配した吉備豪族であったと想定している。
そしていわゆる大化の改新によって、天皇の周辺で活躍した後、八色の姓(684年)で朝臣姓が加わった。



笠朝臣麻呂が資料に初見するのは、『続日本紀』の下記の条である。

この日、太朝臣安麻呂らと共に従五位下に昇叙される。文字通り貴族の一員となった。彼の生年が不明だけに、この時の年齢を推測するしかないが、根拠もないけれども、私見だが40歳前後でなかっただろうか。
 
その後、『続日本紀』慶雲3年(706)には、


に任ぜられ、その職は、三関国(サンゲンコク)の一つであり、軍事的重要拠点であった。その国守職にあった笠朝臣麻呂は『続日本紀』養老4年(720)の

冬十月,庚辰朔戊子,以從四位上-石川朝臣-石足,為左大辨。從四位上-笠朝臣-麻呂,為右大辨。從五位上-中臣朝臣-東人,為右中辨。從五位下-小野朝臣-老,為右少辨。從五位下-大伴宿禰-祖父麻呂,為式部少輔。從五位下-巨勢朝臣-足人,為員外少輔。從五位上-石川朝臣-若子,為兵部大輔。正五位上-大伴宿禰-道足,為民部大輔。從五位下-高向朝臣-大足,為少輔。從五位上-車持朝臣-益,為主稅頭。從五位上-鍜治造-大隅,為刑部少輔。從五位下-阿倍朝臣-若足,為大藏少輔。從五位下-高橋朝臣-安麻呂,為宮內少輔。從五位下-當麻真人-老,為造宮少輔。從五位下-縣犬養宿禰-石次,為彈正弼。從五位下-大宅朝臣-大國,為攝津守。從五位下-高向朝臣-人足,為尾張守。從五位上-忍海連-人成,為安木守。

とあるように、14年間にわたり、美濃守の職にあった。この間、慶雲4年2月に従五位上に、そして従五位上から従四位上に昇叙したらしい。
 国守の任期は天宝令制で6年、慶雲3年(706)格制で4年、天平宝字2年(758)に再び6年となった。宝亀8年(777)に再びらとなり、宝亀11年(780)には九州各国のみ5年となった。
 彼の任期は異様に長かった。彼の地方行政マンとしての有能さを高く評価されたからであろう。

  それもそのはずで、『続日本紀』和銅2年9月の



野村忠夫氏の整理によると、つぎのようになる。

①中央集権の具体的な一方策である国名用字の改定で、全国的に唯一といえる再度の改定をみたミノで「美濃」の用字を公定した。
②「関国」美濃とよばせる三関のひとつ。美濃不破関の整備を行った
③越後方面に通ずる「政治の道」として吉蘇路の難工事を完成し使、「殊功」として論功行賞受けた(註:『令集解』所収古記の「殊功」参照)
④全国的にも数少ない、数郡にわたる広域条里を設定し、また中央政府の方針にもとずいて、和銅8年(715)7月に尾張から席田君邇近(むろだのきみじこん)及び新羅人74家を転住させて、席田郡を建置した。
⑤養老改元につながる元正女帝の醴泉行幸を右大臣藤原不比等の四男、介(守の輔佐官)の藤原朝臣麻呂とはかって在地で演出し、極位である従四位上を特授された。
⑥地方行政の監察強化のために全国的に按察使が布かれると、美濃守として尾張・参河・信濃を管轄する按察使になった。

 確かに野村氏の指摘は的確であるが、私の観点からすれば、もう一点を追加したい。それは時の権力者藤原不比等の4男である藤原麻呂の指南役であったという点である。不比等自身のみならず、次男房前を養老元年(霊亀3年、717)に参議に登用した彼にとって、次の狙いは3男宇合・4男麻呂の参議補任への道を開くことであった。養老改元につながる元正女帝の醴泉祥瑞をエピソードは不比等にとって、いや不比等自身が総プロデューサーとして養老改元のイベントを演出したのではないだろうか。その現地ディレクターが国守笠朝臣麻呂であったし、国介藤原麻呂であっただろう。そうではなく、都から直接に不比等の指示を受けた藤原麻呂が前面に出てシナリオを創出したかもしれない。養老元年11月に、当耆郡多度山の美泉発見に伴う瑞祥で改元されたことに伴い、藤原麻呂は正六位下から従五位下に2段階昇進した。
 ちなみに藤原麻呂は

とあるように、藤原麻呂は天平改元のキッカケとなった瑞祥の亀を天皇に献上するが、第2弾の改元を演出したのも、この養老改元が無縁でないだろう。

 こうした一連のエピソード作り、そして養老元年9月丙申(20日)条に元正天皇の当耆郡多度山の美泉への行幸などの一連のお膳立てをした笠朝臣麻呂への謝意は十分に払われたと想像しても、不自然ではないだろう。


右大弁への異例な抜擢は元明太上天皇と藤原不比等の重用であったにちがいない。その不比等が養老4年(720)8月3日に没し、そしてその翌年の養老5年(721)12月7日に元明太上天皇は平城宮中安殿で薨去した。


 辛亥,令七道按察使及大宰府,巡省諸寺,隨便併合。
 壬子,詔曰:「太上天皇,聖體不豫,寢膳日損。每至此念,心肝如裂。思歸依三寶,欲令平復。宜簡取淨行男女一百人,入道修道。經年堪為師者,雖非度色,並聽得度。」以絲九千絇,施六郡門徒,勸勵後學,流傳万祀。
 戊午,右大辨-從四位上-笠朝臣-麻呂,請奉為太上天皇出家入道。敕許之。

の出家は自然の流れであった。しかしながら養老7年(723)2月に至り、



とあり、大宰府観世音寺の造営別当を命じられた。彼は60歳をはるかに越していたに違いない。

満誓が記録に残る最後は、天平2年(730)正月13日、太宰帥大伴旅人の家で開催された宴歌である。その時、満誓は早や70歳を超えていたと推定される。

ところで、この満誓も罪な男であったらしく、70歳を過ぎて、観世音寺の家女である赤須に子をもうけたらしい。

《卷十二貞觀八年(866)三月四日庚辰》○四日庚辰。太宰府解。觀音寺講師傳燈大法師位性忠申牒。寺家人清貞。貞雄。宗主等三人。從五位下笠朝臣麻呂五代之孫也。麻呂天平年中爲造寺使。麻呂通寺家女赤須。生清貞等。即隨母爲家人。清貞祖夏麻呂。向太政官并大宰府。頻經披訴。而未蒙裁許。夏麻呂死去。清貞等愁猶未有止。寺家覆察。事非虚妄。望請。准據格旨。從良貫附筑後國竹野郡。太政官處分。依請。(『三代実録』)




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参考文献直木孝次郎「美濃守笠朝臣麻呂」『續日本紀研究 』 續日本紀研究会 編 (9), , 1954-09

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