官道| 構成文化財 | 日本遺産「古代日本の『西の都』」 (nishinomiyako.com)
大宰府観光を思い立ったならば、この写真がベスト。
まずは空中写真にある白い線は何かを考えると楽しさ倍増。もし困り果てたならば、下に掲載した資料①を重ね合わせて、正解を探してほしい。
なによりも大宰府政庁遺跡の前に立ち、古代の息吹を感じてほしい。目の前には、
1)約2km四方に碁盤の目に設計された都城
2)西日本にあって、「天下之一都会也」と称されるほどの壮観な都市(『続日本紀』神護景雲3年(769年)10月甲辰の条)
⇒残念ながら住民の数は不明。
3)朱雀大路(政庁中軸線上に伸びる南北2kmのメインストリート)と鴻臚館や九州各地に延びた官道
4)観世音寺の鐘の音
⇒菅原道真公の漢詩「不出門]
一従謫落在柴荊
万死兢兢跼蹐情
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
中懐好逐孤雲去
外物相逢満月迎
此地雖身無検繋
何為寸歩出門行
- (原典: 『菅家後集』(かんけこうしゅう) )
5)新羅・唐軍の襲来に備えて建築された人口の土塁・水城⇒防衛施設
⇒水城の門を通って、大宰府から那の津にある鴻臚館までの官道を往来した古代日本人・隼人、そして百済人・新羅人・高句麗人・渤海人・中国人・インド人(天平4年遣唐使が連れ帰った僧侶・菩提僊那など)・ペルシャ人(波斯人、『続日本紀』天平8年8月庚午条)などの外国人
6)万が一の避難施設大野城
Mizuki a 1975 - 水城 - Wikipedia
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九州国立博物館「西都 太宰府」:西都史跡名所案内 (kyuhaku.jp)
古代の大宰府は、政庁を中心に、その周辺に官衙域、そして東側に学校院、観世音寺を配し、政庁を北辺の中心として、約2km四方にわたって方形のプランを呈する条坊制をしいていたと考えられます。条坊制とは、中国・朝鮮半島の王城都市に見られる都市プランで、南北中央に朱雀大路を配し、そして南北の大路(条)と東西の大路(坊)を碁盤の目状に組み合わせて左右対称で方形に都市のプランを形成するものです。
大宰府は、『続日本紀』神護景雲3年(769年)10月甲辰の条にも「天下之一都会也」と称されるほどの大都市であったと考えられ、古くより南北22条、東西24坊の規模が推定されていました。実際の発掘調査においても、条坊制を証明するような道路の遺構が太宰府市と筑紫野市にまたがって約20箇所以上で検出されています。
それらの発掘調査の結果、推定朱雀大路(政庁中軸線上に伸びる南北2kmのメインストリート)は、路面幅約35〜36m、それ以外の道路は路面幅約3mで、朱雀大路をはじめとする右郭に位置するいくつかの南北の道路は8世紀代に成立し、その後、縮小を続けながらも11世紀後半ごろまで掘り替えられていました。その一方で、その他の道路の多くは、10世紀後半、すなわち藤原純友の乱の後、大宰府政庁Ⅲ期の建物が築造された時期とほぼ同時期に造営され、11世紀後半から12世紀前半に廃絶したことがわかりました。大宰府政庁の成立当時から条坊の完全な姿が存在したわけではないようです。
大宰府の条坊制については、いまだ全容が確認されていない大規模な遺跡です。詳細な全容については、今後の調査の成果に委ねられています。
(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』ほかより)
>>説明書
大宰府の出入口となった水城の西門・東門を通過する直線道です。西門ルートは筑紫館(鴻臚館跡)と大宰府を結ぶ道で、外国使節はこのルートで大宰府へ入りました。東門ルートは博多に繋がっており都からの官人赴任ルートとみられます。西門・東門ルートともに現在は市道として踏襲されています。大宰府から南に向かっては、筑後、肥前、豊前、豊後など西海道各地へと連なる官道がのび、様々な文物や人々が交流し、都市大宰府の発展を支えました
>>参考資料
山本和幸氏が掲示する地図(2015年12月4日掲載、2023年8月15日アクセス)
太宰府の地には、大正期の地図では条坊制は確認できなかった!の画像
>>参考 菅原道真「不出門」の書き下し
書き下し文
一たび(ひとたび)謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きし(つきし)より
万死(ばんし)兢兢(きょうきょう)たり 跼蹐(きょくせき)の情(じょう)
都府桜(とふろう)は纔かに(わずかに)瓦(かわら)の色を看(み)
観音寺(かんのんじ)は只(ただ)鐘(かね)の声を聴く
中懐(ちゅうかい)好し 孤雲(こうん)を逐ひて(おいて)去り
外物(がいぶつ)は相(あい)逢ひて(あいて) 満月迎ふ
此の地 身検繋(けんけい)無しと雖も(いえども)
何為れぞ(なんすれぞ)寸歩(すんぽ)も門を出でて行かん
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