2023年8月27日日曜日

藤原広嗣はなぜ遠河(遠賀)郡家に駐屯したか

理解しがたいのは、挙兵したという藤原広嗣軍の目的地である。

1)軍営を遠賀郡家に置こうとしたのは、理解できる。なぜならば、当時の大宰府官道が大宰府を出発点として、筑前国御笠 ・穂浪 ・嘉麻 の3 郡、そして豊前国 田河 ・京都 の2郡を経由して、豊前国府(福岡県京都郡豊津町大字国作もしくは行橋市南泉一丁目142-3 外。相互のさ距離は約2キロに通じていたからである。

 平城京からの天皇軍が派遣されたとすれば、一般的に北九州方面に向かい、下関から渡海する敵陣を待ち受けるべきであるのに、なぜ豊前国府へ向かったのか。十分な根拠もない想像に過ぎないが、宇佐神宮が最終目的地であったのではないだろうか。

2)藤原広嗣が向かった大宰府官道は大宰府と宇佐神宮を結ぶ官道であり、平城京と宇佐神宮を結ぶ勅使道の沿線であった。豊前国府政庁を中心に南北650m、東西490mの範囲が国府域と推測され、政庁の300m南方に大宰府官道が通っていた。

第4回ふくおか古代テクノロジー 古代ハイウェイ、官道を往く|グラフふくおか(2018 春号) (fukuoka.lg.jp)




参考資料1)豊前国府跡詳細 | みやこ町デジタルミュージアム (miyako-museum.jp)

参考資料2)福岡県教育委員会 1987 『豊津町文化財調査報告書5:豊前国府』豊津町教育委員会 

参考資料3)福原長者原遺跡報告書

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4)香春町を通過する大宰府官道




5)吉富町

>>大宰府と国府を繋ぐ官道(駅路)のうち、豊前豊後ルートは豊津町の豊前国府から築上町越路、福間、豊前市松江しょうえ、荒堀、上毛郡衙、垂水廃寺、下毛郡衙、勅使道を経て、宇佐に向かうコースの幅6メートル規模の直線道路であったことが、各地での発掘調査で発見された路床面や側溝を繋いで復元が可能になっています。現在の地割に名残をを残す条里区割りも、官道を基準にしていたようです。

>>正倉院に残る大宝2年(702年)の残簡戸籍ざんかんこせき「豊前國上毛郡塔里とうり」は、後の「和名類聚抄わみょうるいじょうしょう」記載の「多布とう」とみられる上毛町唐原付近に、「加自久也里」は「炊江郷かしきえのごう」とみられる豊前市大村周辺に想定されますが、渡来系の姓が多いとされています。「和名類聚抄」には、「加牟豆美介かむつみけ」という記述があって、上身郷もみられます。この上(止もしくは土の誤字とする説がある)身は吉富周辺の可能性が高いといえます。また、藤原広嗣ひろつぐの乱(740年)に関係する「登美鎮」は軍事施設らしく、海路と河川沿いの交通の要衝であった吉富町などを含む山国側下流域に登美鎮とみちんあったとする説もあります



6)みやこ町

>>田河道






ところで、北九州市にも大宰府官道の痕跡がある。

>>>八幡西区の東川頭町に、古代からの「道」が存在する。史跡にもなっていて、この北九州にわずかな痕跡として存在する。
その「道」は大宰府官道であり、7世紀~8世紀ごろに整備~完成したといわれている。
7世紀~8世紀は飛鳥時代~奈良時代のことで、8世紀初めには大宝律令が完成している。当時、財源や権限などを中央政府で一元化する動きがあり、中央より大宰府の政庁がある国衙領地とを結ぶ幹線官道であったそうだ。
現在、石畳で整備されているが、小高い丘に細い道が上下している感じである。主要な幹線であるため、当時は幅が広かったのではないかと思われるが、今は民家の間におとなしく残っている。政治や経済が変わり、時代が変わることにより、官道は廃れていったようである。江戸時代に入って道路の主役は長崎街道となったが、古き時代のこの「道」は中央と地方の連絡網として必要不可欠な存在であったはずだ。








7)参考資料

九月,乙酉朔丁亥,廣嗣遂起兵反。
 敕,以從四位上-大野朝臣-東人,為大將軍。從五位上-紀朝臣-飯麻呂,為副將軍。軍監、軍曹,各四人。徵發東海、東山、山陰、山陽、南海五道軍一萬七千人,委東人等,持節討之。
 戊子,召隼人廿四人於御在所。右大臣-橘宿禰-諸兄宣敕,授位各有差。并賜當色服發遣。
 己丑,敕從五位上-佐伯宿禰-常人,從五位下-阿倍朝臣-蟲麻呂等,亦發遣任用軍事。
 從五位下-神前王,賜姓-甘南備真人,補攝津亮。
 乙未,遣治部卿-從四位上-三原王等,奉幣帛于伊勢大神宮。
 己亥,敕四畿內七道諸國曰:「比來,緣筑紫境有不軌之臣,命軍討伐。願依聖祐,欲安百姓。故今國別造觀世音菩薩像壹軀,高七尺,并寫觀世音經一十卷。」
 乙巳,敕大將軍-大野朝臣-東人等曰:「得奏狀,知遣新羅使船來泊長門國。其船上物者,便藏當國,使中有人,可採用者,將軍,宜任用之。」
 戊申,大將軍-東人等言:「殺獲賊徒-豐前國京都郡鎮長大宰史生-從八位上-小長谷-常人、企救郡板櫃鎮小長-凡河內-田道。但,大長三田-鹽籠者,著箭二隻,逃竄野裏。生虜登美、板櫃、京都三處營兵一千七百六十七人。器仗十七事。仍差長門國豐浦郡少領-外正八位上-額田部-廣麻呂,將精兵卌人,以今月廿一日發渡。又差敕使-從五位上-佐伯宿禰-常人,從五位下-安倍朝臣-蟲麻呂等,將隼人廿四人并軍士四千人,以今月廿二日發渡,令鎮板櫃營。東人等將後到兵,尋應發渡。又,間諜申云:『廣嗣,於遠珂郡家,造軍營,儲兵弩,而舉烽火,徵發國內兵矣。』」
 己酉,大將軍東人等言:「豐前國京都郡大領-外從七位上-楉田-勢麻呂,將兵五百騎。仲津郡擬少領-無位-膳-東人,兵八十人。下毛郡擬少領-無位-勇山伎美-麻呂、築城郡擬少領-外大初位上-佐伯-豐石,兵七十人。來歸官軍。又,豐前國百姓-豐國-秋山等,殺逆賊-三田-鹽籠。又,上毛郡擬大領-紀宇-麻呂等三人,共謀斬賊徒首四級。」
 癸丑,敕筑紫府管內諸國官人百姓等曰:「逆人廣嗣,小來凶惡,長益詐奸。其父-故式部卿,常欲除棄,朕不能許,掩藏至今。比在京中,讒亂親族。故令遷遠,冀其改心。今聞:『擅為狂逆,擾亂人民。』不孝不忠,違天背地。神明所棄,滅在朝夕。前已遣敕符,報知彼國。又聞:『或有逆人,捉害送人,不令遍見。』故更遣敕符數千條,散擲諸國。百姓見者,早宜承知。如有人,雖本與廣嗣同心起謀,今能改心悔過,斬殺廣嗣,而息百姓者,白丁賜五位已上,官人隨等加給。若身被殺者,賜其子孫。忠臣義士,宜速施行。大軍續須發入,宜知此狀。」
 冬十月,甲寅朔戊午,遣渤海郡使-外從五位下-大伴宿禰-犬養等,來歸。
 壬戌,詔大將軍-東人,令祈請八幡神焉。
 大將軍-東人等言:「逆賊-藤原-廣嗣,率眾一万許騎,到板櫃河。廣嗣親自率隼人軍為前鋒。即編木為船,將渡河。于時,佐伯宿禰-常人、安倍朝臣-蟲麻呂,發弩射之。廣嗣眾卻,列於河西。常人等率軍士六千餘人,陣于河東。即令隼人等呼云:『隨逆人-廣嗣,拒捍官軍者,非直滅其身,罪及妻子、親族者。』則廣嗣所率隼人并兵等,不敢發箭。于時,常人等呼廣嗣十度,而猶不答。良久,廣嗣乘馬出來云:『承敕使到來。其敕使者為誰?』常人等答云:『敕使衛門督-佐伯大夫、式部少輔-安倍大夫,今在此間者。』廣嗣云:『而今知敕使。』即下馬,兩段再拜,申云:『廣嗣,不敢捍朝命。但請朝廷亂人二人耳。廣嗣敢捍朝廷者,天神地祇罰殺。』常人等云:『為賜敕符喚大宰典已上,何故發兵押來?』廣嗣不能辨荅,乘馬卻還。時,隼人三人,直從河中泳來降服。則朝廷所遣隼人等扶救,遂得著岸。仍降服隼人二十人,廣嗣之眾十許騎,來歸官軍。獲虜器械如別。又降服隼人-贈唹君-多理志佐申云:『逆賊-廣嗣謀云:「從三道往。即廣嗣自率大隅、薩摩、筑前、豐後等國軍合五千人許,從鞍手道往。綱手率筑後、肥前等國軍合五千許人,從豐後國往。多胡古麻呂,不知所率軍數。從田河道往。」但廣嗣之眾,到來鎮所,綱手、多胡古麻呂,未到。』


《天平十二年(七四〇)十一月丙戌【三】》○丙戌。遣少納言従五位下大井王。并中臣・忌部等。奉幣帛於大神宮。車駕停御関宮十箇日。是日。大将軍東人等言。進士無位安倍朝臣黒麻呂、以今月廿三日丙子、捕獲逆賊広嗣於肥前国松浦郡値嘉嶋長野村。詔報曰。今覧十月廿九日奏。知捕得逆賊広嗣。其罪顕露、不在可疑。宜依法処決。然後奏聞。
《天平十二年(七四〇)十一月丁亥【四】》○丁亥。遊猟于和遅野。免当国今年租。
《天平十二年(七四〇)十一月戊子【五】》○戊子。大将軍東人等言。以今月一日。於肥前国松浦郡。斬広嗣・綱手已訖。菅成以下従人已上。及僧二人者。禁正身、置大宰府。其歴名如別。又以今月三日。差軍曹海犬養五百依。発遣。令迎逆人。広嗣之従三田兄人等廿余人。申云。広嗣之船、従知駕嶋発。得東風往四ケ日。行見嶋。船上人云。是耽羅嶋也。于時東風猶扇。船留海中。不肯進行。漂蕩已経一日一夜。而西風卒起。更吹還船。於是。広嗣自捧駅鈴一口云。我是大忠臣也。神霊棄我哉。乞頼神力。風波暫静。以鈴投海。然猶風波弥甚。遂着等保知駕嶋色都嶋矣。広嗣、式部卿馬養之第一子也。

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