理解しがたいのは、挙兵したという藤原広嗣軍の目的地である。
1)軍営を遠賀郡家に置こうとしたのは、理解できる。なぜならば、当時の大宰府官道が大宰府を出発点として、筑前国御笠 ・穂浪 ・嘉麻 の3 郡、そして豊前国 田河 ・京都 の2郡を経由して、豊前国府(福岡県京都郡豊津町大字国作もしくは行橋市南泉一丁目142-3 外。相互のさ距離は約2キロ)に通じていたからである。
平城京からの天皇軍が派遣されたとすれば、一般的に北九州方面に向かい、下関から渡海する敵陣を待ち受けるべきであるのに、なぜ豊前国府へ向かったのか。十分な根拠もない想像に過ぎないが、宇佐神宮が最終目的地であったのではないだろうか。
2)藤原広嗣が向かった大宰府官道は大宰府と宇佐神宮を結ぶ官道であり、平城京と宇佐神宮を結ぶ勅使道の沿線であった。豊前国府政庁を中心に南北650m、東西490mの範囲が国府域と推測され、政庁の300m南方に大宰府官道が通っていた。
第4回ふくおか古代テクノロジー 古代ハイウェイ、官道を往く|グラフふくおか(2018 春号) (fukuoka.lg.jp)
参考資料1)豊前国府跡詳細 | みやこ町デジタルミュージアム (miyako-museum.jp)
参考資料2)福岡県教育委員会 1987 『豊津町文化財調査報告書5:豊前国府』豊津町教育委員会
参考資料3)福原長者原遺跡報告書
59462_1_福原長者原遺跡.pdf参考資料4)行橋市パンフレット「ゆかし、ゆくはし」
史跡福原長者原官衙遺跡保存活用計画 - ゆかし、ゆくはし。 ―行橋市の歴史と文化財― - 行橋市ホームページ (city.yukuhashi.fukuoka.jp)
史跡福原長者原官衙遺跡保存活用計画 - ゆかし、ゆくはし。 ―行橋市の歴史と文化財― - 行橋市ホームページ (city.yukuhashi.fukuoka.jp)
4)香春町を通過する大宰府官道
5)吉富町
>>大宰府と国府を繋ぐ官道(駅路)のうち、豊前豊後ルートは豊津町の豊前国府から築上町越路 、福間、豊前市松江 、荒堀、上毛郡衙、垂水廃寺、下毛郡衙、勅使道を経て、宇佐に向かうコースの幅6メートル規模の直線道路であったことが、各地での発掘調査で発見された路床面や 側溝を繋いで復元が可能になっています。現在の地割に名残をを残す条里区割りも、官道を基準にしていたようです。
>>正倉院に残る大宝2年(702年)の残簡戸籍 「豊前國上毛郡塔里 」は、後の「和名類聚抄 」記載の「多布 」とみられる上毛町唐原付近に、「加自久也里」は「炊江郷 」とみられる豊前市大村周辺に想定されますが、渡来系の姓が多いとされています。「和名類聚抄」には、「加牟豆美介 」という記述があって、上身郷もみられます。この上(止もしくは土の誤字とする説がある)身は吉富周辺の可能性が高いといえます。また、藤原広嗣 の乱(740年)に関係する「登美鎮」は軍事施設らしく、海路と河川沿いの交通の要衝であった吉富町などを含む山国側下流域に登美鎮 があったとする説もあります
6)みやこ町
>>田河道
ところで、北九州市にも大宰府官道の痕跡がある。
>>>八幡西区の東川頭町に、古代からの「道」が存在する。史跡にもなっていて、この北九州にわずかな痕跡として存在する。
その「道」は大宰府官道であり、7世紀~8世紀ごろに整備~完成したといわれている。7世紀~8世紀は飛鳥時代~奈良時代のことで、8世紀初めには大宝律令が完成している。当時、財源や権限などを中央政府で一元化する動きがあり、中央より大宰府の政庁がある国衙領地とを結ぶ幹線官道であったそうだ。
現在、石畳で整備されているが、小高い丘に細い道が上下している感じである。主要な幹線であるため、当時は幅が広かったのではないかと思われるが、今は民家の間におとなしく残っている。政治や経済が変わり、時代が変わることにより、官道は廃れていったようである。江戸時代に入って道路の主役は長崎街道となったが、古き時代のこの「道」は中央と地方の連絡網として必要不可欠な存在であったはずだ。
7)参考資料
0 件のコメント:
コメントを投稿