2023年8月4日金曜日

藤原広嗣が大宰府へ左遷されたのは

天平12年(740)8月29日、太宰少弐藤原広嗣が上表文を提出して、玄昉と下道真備の排除を願ったことは周知のとおりである。


中村順昭氏の研究によって、なぜ藤原広嗣が反乱を起こし、そして大宰府管内で約1万人の反乱軍を組織し、自由に軍事権を行使できたのかを知るヒントを得た。
 藤原広嗣の乱の概要は周知の通りであるので、ここでは割愛したい。天平12年(740)8月当時、藤原広嗣の官職から、中村氏の研究を紹介したい。そもそも藤原広嗣は著名な政治家である藤原宇合の子である。天平9年9月に従六位上から従五位下に上った。

*天平9年9月己亥


庚申,從五位下-佐伯宿禰-淨麻呂,為左衛士督。從五位下-藤原朝臣-廣嗣,為大養德守,式部少輔如故。從五位下-百濟王-孝忠,為遠江守。外從五位下-佐伯宿禰-常人,為丹波守。從五位下-大伴宿禰-兄麻呂,為美作守。外從五位下-柿本朝臣-濱名,為備前守。外從五位下-大宅朝臣-君子,為筑前守。外從五位下-田中朝臣-三上,為肥後守。外從五位下-陽侯史-真身,為豐後守。
 
とあり、藤原広嗣は「大養徳(やまと)守」に任じられている。なお同日に、「外從五位下-大宅朝臣-君子,為筑前守。外從五位下-田中朝臣-三上,為肥後守。外從五位下-陽侯史-真身,為豐後守。」とあることにも留意しておきたい。


 12月,甲子朔丁卯,從五位下-宇治王,為中務大輔。從四位下-高橋朝臣-安麻呂,為大宰大貳。從五位下-藤原朝臣-廣嗣,為少貳。

そして興味深いのは、その時に高橋安麻呂は右大弁(令制下において右弁官局(兵部・刑部・大蔵・宮内の四省を管理する長)であったので、とても彼が大宰府に赴任したとは考え難い。
 しかも高橋安麻呂と藤原広嗣の父である藤原宇合との縁である。
《神亀元年(七二四)四月丙申【七】》○丙申。以式部卿正四位上藤原朝臣宇合為持節大将軍。宮内大輔従五位上高橋朝臣安麻呂為副将軍。判官八人。主典八人。為征海道蝦夷也
とあるように、養老8年・神亀元年(724)4月に、式部卿正四位上藤原朝臣宇合が持節大将軍となり、その副将に宮内大輔従五位上高橋朝臣安麻呂が任命されている。

加えて、

《神亀元年(七二四)十一月乙酉【廿九】》○乙酉。征夷持節大使正四位上藤原朝臣宇合。鎮狄将軍従五位上小野朝臣牛養等来帰。
《神亀二年(七二五)閏正月丁未【廿二】》○丁未。天皇臨朝。詔叙征夷将軍已下一千六百九十六人勲位。各有差。授正四位上藤原朝臣宇合従三位勲二等。従五位上大野朝臣東人従四位下勲四等。従五位上高橋朝臣安麻呂正五位下勲五等。従五位下中臣朝臣広見従五位上勲五等。従七位下後部王起。正八位上佐伯宿禰首麻呂。五百原君虫麻呂。従七位下君子竜麻呂。従八位上出部直佩刀。少初位上紀朝臣牟良自。正八位上田辺史難波。従六位下坂下朝臣宇頭麻佐。外従六位上丸子大国。外従八位上国覓忌寸勝麻呂等一十人並勲六等。賜田二町。

とあるように、小野朝臣牛養や中臣朝臣広見などと同様に、高橋安麻呂は持節大将軍藤原宇合の部下であり、蝦夷戦線での戦友であった。
さらに興味深いのは、藤原広嗣の乱の制圧に、聖武天皇が差し向けたのは、広嗣の父宇合の下で蝦夷との激戦を交わした大野東人であった。
 ところで、以下の考えは木本好信氏に学んだのであるが、天平11年4月の一連の事件を時系列にまとめてみると興味深い

《天平十一年(七三九)三月庚申【廿八】》○庚申。石上朝臣乙麻呂坐姦久米連若売。配流土左国。若売配下総国焉。
《天平十一年(七三九)四月戊辰【七】》○戊辰。中納言従三位多治比真人広成薨。左大臣正二位嶋之第五子也。
《天平十一年(七三九)四月壬午【廿一】》○壬午。陸奥国按察使兼鎮守府将軍大養徳守従四位上勲四等大野朝臣東人。民部卿兼春宮大夫従四位下巨勢朝臣奈弖麻呂。摂津大夫従四位下大伴宿禰牛養。式部大輔従四位下県犬養宿禰石次為参議。

まず、石川朝臣乙麻呂の事件をみると、一見して一人の男性(石川朝臣乙麻呂)のスキャンダルにすぎないようであるが、石川朝臣乙麻呂の姉妹である国盛は藤原宇合の妻であり、藤原広嗣の母である。しかも当時の官職左大弁であった。いわば叔父と甥の関係にあり、藤原広嗣の後見人であったらしい。
 高齢であり、余命いくばくもないと予想した者にとって、中納言従三位多治比真人広成の薨去は絶好の機会となった。つまり参議補充による太政官の構成を再編するためにである。
 その時、参議候補者として従四位下以上のものは大野朝臣東人・巨勢朝臣奈弖麻呂・大伴宿禰牛養・県犬養宿禰石次・中臣名代・小野牛養であり、石川朝臣乙麻呂と高橋安麻呂であった。
 
 中納言従三位多治比真人広成が死去したのち、太政官であった知太政官事鈴鹿王・右大臣橘諸兄・参議大伴道足・参議藤原豊成が考えたのは、その後任人事として、藤原広嗣派とは距離を置く、

*陸奥国按察使兼鎮守府将軍大養徳守従四位上勲四等大野朝臣東人。民部卿兼春宮大夫従四位下巨勢朝臣奈弖麻呂。摂津大夫従四位下大伴宿禰牛養。式部大輔従四位下県犬養宿禰石次

を参議に任ずることであった。面白いのは、式部大輔従四位下県犬養宿禰石次が従四位下に任命されたのは、この人事の僅か4か月前の天平11年正月であり、しかも2階級特進であった。この特進は、橘諸兄の母である県犬養橘三千代の同族への厚遇であったと考えられるという。同意してよいだろう。
この人事構成で注目すべきは、知太政官事鈴鹿王は別格として、右大臣橘諸兄を除けば、残りは参議だけであることだ。つまり大納言も中納言も不在であり、橘諸兄の政治力は突出することとなった。
 この一連のシナリオを案出したのは、橘諸兄であったことは明白である。

以上が木本好信氏の説であるが、これを踏まえるとわかりやすいのは、藤原広嗣の乱の鎮圧に向かったのが、参議に上り、橘諸兄グループに加わった陸奥国按察使兼鎮守府将軍大養徳守従四位上勲四等大野朝臣東人であったことである。


しかも天平9年8月に藤原宇合(広嗣の父)が死んでから、肝心な太宰帥は空席であったらしい。
<田中篤子 「大宰帥・大宰大弐補任表」(『史論』第26・27集 東京女子大学史学研究室、1973年、44-93頁

ちなみに太宰少弐の定員は2名であった。藤原広嗣が着任したときのもう一人の太宰少弐は従五位下多治比真人伯であった。
《天平十一年(七三九)三月癸丑【廿一】》
○癸丑。詔曰。朕、恭膺宝命。君臨区宇。未明求衣。日昃忘膳。即得従四位上治部卿茅野王等奏称。得大宰少弐従五位下多治比真人伯等解称。対馬嶋目正八位上養徳馬飼連乙麻呂所獲神馬。青身白髦尾。謹検符瑞図曰。青馬白髦尾者、神馬也。聖人為政。資服有制。則神馬出。

<右田文美「大宰少弐考 : 附 大宰少弐補任表」(『史論』第31集、20-51、1977年、東京女子大学学会・東京女子大学史学研究室)

 大宰府に着任した藤原広嗣には、太宰帥はおろか権帥、そして太宰大弐さえも不在であった可能性が高いと中村氏は指摘するが、この中村順昭説とは反対に、藤原安麻呂が大宰府に赴任したという考えに立つ研究者もいる。卑見によると、藤原安麻呂が大宰府に赴任したとみている。

未完

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