2016年6月25日土曜日

大宰府あれやこれや(2)

大宰府と言えば、多くの人にとっては、「天満宮」を思い浮かべがちである。したがって、太宰府天満宮に関しては、1,100年以上に亘り、天神さまは学問の神様、文化芸術の神様、厄除けの神様などと広く崇敬され、人々の心のよりどころとしていまもなお信仰され続けています。
太宰府天満宮は全国天満宮の総本宮であり、道真公の御墓所として唯一無二の聖地「菅聖庿(かんせいびょう)」と称えられています。」(天満宮HP
太宰府天満宮について|太宰府天満宮 (dazaifutenmangu.or.jp) )

および太宰府市文化情報HPにある、
「菅原道真と太宰府天満宮 ページID:0001022
更新日:2016年8月31日更新学問の家に生まれ、右大臣にまでのぼりつめた菅原道真(すがわらのみちざね)でしたが、左大臣藤原時平の圧力によって昌泰(しょうたい)4年(901)、大宰権帥に左遷されました。

大宰府での暮しは都とはうって変わって侘(わび)しいもので、

与えられた官舎(南館)は床も朽(く)ち屋根は雨漏りするようなありさまでした。
そこで失意のうちに2年間を過ごし、延喜(えんぎ)3年(903)に亡くなります。その遺骸を牛車(ぎっしゃ)に乗せて運んでいたところ、牛が動かなくなり、そこに埋葬しました。その地が現在の太宰府天満宮であり、大宰府での住居・南館の地が現在の榎(えのき)社と伝えられています。

太宰府天満宮は、安楽寺(あんらくじ)ともいいました。まず、延喜年中に御廟(ごびょう)が建てられ、その後、大宰府官人として赴任した中央貴族たちによって次々と堂宇(どうう)が寄進建立(きしんこんりゅう)されて寺院の形が整えられていきました。
荘園を40ヶ所以上持ち、平安時代の11世紀から12世紀にかけての頃が最盛期だったようです。

戦国時代、度々の戦乱に巻きこまれて社殿は焼き討ちにより焼損、一時荒廃しましたが、豊臣秀吉の時代、筑前国の領主になった小早川隆景(こばやかわたかかげ)によって本殿が再建され、続く江戸時代も藩主黒田氏によって復興が行われました。

このようにして、菅原道真は文道・学問の神として人々の信仰を集め、今日に至っています。」

(太宰府市HP 7.菅原道真と太宰府天満宮 - 福岡県太宰府市公式ホームページ (dazaifu.lg.jp)

2024年2月20日アクセス)

そして、九州国立博物館の紹介記事も参考になる。

 太宰府天満宮(本殿)

太宰府天満宮は、学問の神様として広く崇敬を集め、年間600万人ともいわれる人々が訪れる菅原道真ゆかりの神社です。年間を通じて多くの行事と、境内には多くの文化財があります。
延喜3年(903年)2月25日、失意の内に59歳の生涯を閉じた道真公の亡骸は、牛車に乗せられて府の南館を後にしました。そして、牛が動かなくなった所に葬るようにという道真公の遺言にしたがって埋葬されました。それが、現在の本殿があるところであり、明治維新までは、「安楽寺」といい、天台宗の寺院でした。安楽寺の別当(現在の太宰府天満宮の宮司)は、代々菅原道真の子孫の家筋である高辻家(現在の西高辻家)が務めてきました。
また、江戸時代には天神信仰の隆盛により、太宰府天満宮は菅公の墓所「西都聖廟」であったことから、文芸・学問上達や、五穀豊穣、厄払いのため、「さいふまいり」として遠方からの太宰府天満宮への参詣客も増え、福岡藩27宿の一つ宰府宿も賑わいを呈しました。」


(九州国立博物館 HP 九州国立博物館「西都 太宰府」:西都史跡名所案内 (kyuhaku.jp)

の概略を理解した上で、ぜひ参詣していただきたい。そのご利益は抜群である。


(1)大宰府と言えば、「水城」を忘れてはならない。
*「是歳、於対馬島、壱岐島、筑紫国等、置防与烽、又於筑紫、築大堤貯水、名曰水城」(日本書紀天智天皇3年条)
は押さえておかなくてはならない記事である。百済復興を目指して朝鮮半島に軍事介入した日本軍は、天智2年(663)の白村江の戦いで大敗したことによって、その軍事的野望は気泡に帰した。そもそも660年に唐・新羅連合軍が百済を滅亡させ、続いて高句麗(668年)に攻撃し、滅ぼす。百済滅亡後にも、その復興を願う勢力からの要請に応じて、日本は大軍を派遣するが、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗北した。

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